ゴスペルメッセージ2013

阪神チャペルセンター
 廣瀬利男 師


 「愛と希望のクリスマス」

 「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」
(Tヨハネ4:7−12)

 神様の贈られた楽しいクリスマス
 11月にもなりますと12月が待ちとおしいようにして町はクリスマスの雰囲気になります。百貨店や商店街ではクリスマス・セールが始まり、ツリーが飾られ、ジングルベルやホワイトクリスマスの調べが流れます。この頃では至るところの家でイルミネーションで飾られ人目を引くようになります。どことなく楽しく、嬉しく「メリー クリスマス」と叫んでしまいます。「嬉しいのです」「おめでたいのです」。クリスマスと言えばサンタクロースや、ツリーです。そしてケーキです。世界中に広がり、子供たちにクリスマスにプレゼントを贈る楽しい風物詩となっています。サンタクロースは“子供の夢”でもあるのです。クリスマスにはサンタクロースがツリーに靴下をぶら下げて置くと、夜のうちに贈り物を入れてくれるというのです。サンタクロースはフインランドの国のものと思っている人が多いのですが、元々のお話はトルコの紀元3世紀の古いお話から始まったのです。パタラと言う港町に神様を信じるお金持ちの息子のニコラスと言う人がいたのです。両親は子供の時亡くなり莫大な遺産を残しました。ニコラスは小さい時から“命”は神様にあたえられ、恵みと愛によって守られて大きくなるのだと教えられたのです。そして大きくなって神様に生涯を捧げて生きる決心をして神学を学んで教会の司教(牧師)さんになって、自分の財産を貧しい人に分けたのでした。或る時、貧しい靴屋が居て3人の娘がいたのです。貧しさのために娘の結婚がまとまったのですが、結婚をする準備のお金が全くないのです。娘のことを思って父親は悲しくて眠れなかったのです。夜半になって表の戸ところでドスンという音がするので、出てみるとそこに金袋があったのです。思わず追いかけてそれをおいて行ってくれた人を探すのですが見つからなかったのです。靴屋のお父さんは泣きながら感謝して娘を嫁に出したのでした。そして残った二人の娘の時の同じように届けられたのでした。そのお父さんは三人目の娘にも送って下さるという予感がしてその人を待っていました。そして三度目にそのお金をおいていってくれた人に出会ったのです。町の人々はサンクッス・ニコラス、聖ニコラスと呼ぶようになったのです。聖書に「神様が愛である」と記してあり、実際に神の御子イエス様が神様の愛を証しするために来られて、真実の「神様の愛」の道をお示しになったのです。そのイエス・キリストがお生まれになったことを祝うのがクリスマスであるのです。神様が、真実の人の幸せの道を明らかにして下さったことを祝う喜びの日であるのです。

 愛と希望に生きる幸せ
 人の幸せは「愛と希望」に生きることにあるのです。その「愛と希望」をクリスマスは神様がおおくり下さったことを喜ぶ時です。クリスマスはイエス・キリストがお生まれれになったことを祝う「祭り」です。祭りとは「記念日」であるのです。「記念する」と言うのは聖書の言葉(ギリシャ語)でアナムネーシスと言います。思い出し、昔の出来事を今、実際に記念している人の心に再現することなのです。言換えれば、イエス様がお生まれになったことは神様が人と共に居て下さる喜びを今、再現することです。
 聖書には「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Tヨハネ4:12)とあります。「愛し会う」ところに「神様」がおられるのです。「愛」があるところに「希望」があります。人は、「神様が愛である」ように「神に似せて人は創造された」(創世記1:27)と記しています。よく考えてみると、人は、両親の愛によって生まれ、愛に育まれ、自分を愛することに目覚め、人は愛しあって家庭で育まれ、愛に目覚めて成人し、愛しあって社会で働くのです。「愛は、人を結ぶ絆です」。愛のないところは神のない世界であり暗闇であると言えるのです。
 愛があるところには希望があるのです。「人の幸せ」は何かと問われれば、お金であったり、好きな恋人と一緒にいること、いい家に住みたい、宝石がほしいと、人それぞれ違うものです。しかし、人が全てを失っても、これを失っては幸せでではないものは何かと言うと、「愛である」のです。人は愛され、愛し会うことによって希望が生まれ平安が与えられるのです。

 貧しさと悲しみの中の真実の美しい愛
 オー・ヘンリーと言う人の「賢者の贈り物」と言う作品があります。或るところに貧しい夫妻が居ました。夫妻が相手にクリスマスプレゼントを買うお金を工面しようとします。妻のデラは、夫のジムが祖父と父から受け継いで大切にしている金の懐中時計を吊るす鎖を買うために、自慢の髪を当時あった髪の毛を売る商人の元でバッサリ切り落とし、売ってしまうのです。一方、夫のジムはデラが欲しがっていた鼈甲の櫛を買うために、自慢の懐中時計を質に入れていた。物語の結末で、この一見愚かな行き違いは、しかし、最も賢明な行為であったと結ばれています。

 誰も不幸に生きたいと願わない
 誰でも不幸に生きたいと願う人はいない。ジムとデラは最も大切な最期の物を失いました。しかし、その大切なものを失うことで、最も大切な物を確信できたのです。それは互いに「真実に愛し合っている」ことが解ったのです。最も大切なものは見えないが、二人を固く結ぶ「真実の愛」をそこにはっきりと見えたのです。「愛」は見えません。しかし、愛は存在するのです。人の心の中にある「愛」は見えないのです。しかし、その愛がなければ真実の幸せはないのです。貧しくても、苦しくても、悲しくても、愛があるところに「希望」があるのです。「愛」のあるところには希望の「命」が芽生えるのです。希望は「命」として努力、勇気、忍耐を生み出し、その命はやがて実を結ぶのです。
 愛と希望の命を生みだす命の[血液]こそ「信仰」であるのです。愛は、信じることによってあるのです。そしてその愛は信じることによって希望に成るのです。そしてその希望が人を生かす力、命となるのです。聖書は「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Tコリント13:13)と記しています。

 分かりにくい愛
 しかし、日本語で「愛」とはややこしいものです。そもそも「愛」と言う字は、「愛欲」と言う意味にしか使われず、罪深い欲情を意味していたようです。仏教では元来、愛欲は女性によって起されるもので女性は汚れた者、救われないものと考えられていました。日本で法然聖人や親鸞聖人が仏の慈悲という考えで救いを説くのです。しかし、そこには依然として女性蔑視の思想は糸を引くのです。ザビエルの後に宣教師アルメイダが来日して天草の河浦にコレッジ(学校)を開き、聖書を訳そうとして「愛」と言う言葉の意味が、日本では愛欲として使われているので「愛」をどのように訳していいのか悩むのです。そこで「神は親切である」と訳したという逸話が伝えられています。

 聖書の言葉の教える3つの愛
 人が生きることは、何かを愛することでもあるのです。食べたい、飲みたい、生きたいなどが生きる欲望であり、愛欲であり、名誉欲、所有欲、支配欲などがあります。これが本能的な愛であり、欲望であるのです。このことは新約聖書の言葉[ギリシャ語]でエロスと言います。この言葉は日本語に成っていてエロチックと言うといやらしい愛欲を連想するのです。言換えれば打算的な愛であると言えるのです。しかし、本来この言葉は人の生きる欲望愛を意味しているのであって食欲、睡眠欲、性欲、などの本能的な欲情を意味しています。また、両親の愛や兄弟愛、友情などは一般的に値を求めない犠牲的に愛し合う愛であるのです。それをフィロスと言います。

 真実の神様の愛アガペー
そして神様の「愛」をアガペーというのです。この神様の愛は、愛する者を生かす愛でです。言換えれば、愛している人のために自分の全てを犠牲にする、与える愛であるのです。聖書には「神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:8−9)とあります。神が愛であり、「私達」全ての人が「生きるようになるために」、即ち、神の愛に生きる、神様の愛によって生きる時、そこに希望と平和が約束され「人は生かされる」ようになるというのです。

 愛に生きる人
人は本来、「神に似せて造られた。」(創世記1:27)。「神は愛なり」とあるように「人も、愛に生きる」時に神の恵みと愛を体験することが出来るのです。真実の神様の愛に生きる時にこそ真実の幸せのを生きることが出来るのです。人は、神様を忘れ、信じようとしないで自分が生きるために、生きる欲望に生きる時、真実の愛を見失い、自己中心の欲情に生きることになるのです。それこそが人の道を誤らせ、この混乱と破壊への様々な人生模様を描くことになるのです。知性や理性、教養があっても、人は、欲情に意志は迷いやすく、罪を犯し続けるのです。法律さえ守れば罪人ではない、他人に迷惑をかけなければいいと思っているのですが、どんな人でも心に欲情を持っているのですから、罪を犯す可能性、罪の根を持っていることになります。その罪こそ、人生を混乱させ生活を破壊することになるのです。そして誰でも死を迎えるのです。そこには空しさと儚さ、離別の悲しみ、孤独と迷いが残ることになります。人生の答えは「諦め」であるのです。聖書は「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」(Tヨハネ5:4)といいます。イエス様にあっては人生は「諦め」ではなく、「勝利」です。勝利は解決です。救いです。

 神の国、天国を生きる
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)独り子戸はイエス・キリストです。イエス様をおくられたのは一人の人も不幸になって、生きる目的を持たないで、欲望の罪を終わる諦めでなく、「永遠の命」即ち、神の命、本来の人間の命としての真実の愛、変わらない永遠の神の国に生きることに目覚めることにあるのです。永遠は死後の世界だけでなく、いま現実こそ永遠の今であり、神様が共におられる国こそ天国であり永遠の命であるのです。
イエス様は見失った神様の愛を回復するために人になられたのです。神様の愛と恵み、神様を信じて罪を悔い改めり時、「神様に愛されている私」を見だせるのです。神の愛に目覚める。神様の愛を信じる経験によって、神様の国に生きる人に成るのです。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Tヨハネ4:12)神様のおられる所こそ「天国」です。

 クリスマスの日々を生きる
クリスマスこそ、神の御子イエス様が人として生まれ神様の愛と恵みをその人生を通して、神の愛と恵みに反抗する人たちに十字架の犠牲になられ、神の愛を、天国の原則をお示しになったのです。十字架は神様の愛と恵みのシンボルです。十字架は和解と平和を、神様の愛を示すのです。クリスマスは全ての人の願う、平和と希望の時であるのです。
家庭に幸せを、人の人生に勝利を、世界に平和を!!!
クリスマスを日々に生きる人になりましょう。

* キリスト教会では、イエス様の生誕と復活を記念して毎週、日曜日には朝10時30分から聖書のお言葉を聴き、神様の恵みのゴスペル・ソングを歌い、感謝と学びの時を持ち、みんなで交流の楽しい時を持ちます。是非、日曜日は毎週、教会にお越しください。お待ちしております。聖書をご希望の方には差し上げます。 (英語と日本語の対訳もあります)

 



会場:阪神チャペルセンター


尼崎市西難波町1-28-4 06−6417−1134


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