「心の戸をたたくキリスト」       聖書の箇所:黙示録3章14−22節

4月は進学、就職の季節である。今年は、大卒の二人の姉妹が教職に就職ができ教会の喜びである。愛姉妹は幼稚園教諭として、智恵姉妹は念願の小学校の教諭に就職が決まった。二人の新しい門出を祝うと共に、よき教育者として成長し、実績を積み重ねることができるように祈らねばならない。今日の教育で幼少の園児や生徒の学級破壊は深刻な社会問題とさえなっている。それは子供の問題であるばかりでなく、根源的には大人の問題である。カントが言うように「人間は教育されて人間になる唯一の動物である」。言い換えれば「教育されない人間は動物と同じである」ということになる。また、「人間は3歳までに性格が形成される」とも言われている。それは3歳までに基礎的な人格形成の土台ができるということである。

我慢する、忍耐する、甘える、自存するなどの自己否定と自己主張、即ち、依存と自立のバランスが両親との生活の中で養われることになる。両親の愛情が大きな問題の原因になる。その子を幼稚園や学校でさらに育て教えることは、基本的に愛情が不可欠である。忍耐して、じっと待つ心が求められる。教師の生徒愛による忍耐が教育の決め手になる。

さて、今朝のテキストは黙示録の3章である。黙示録の初め1章から3章まではアジア(今のトルコ西方)にある7つの教会へのノメッセージがある。3章はその最後のラオデキヤにある教会へのメッセージ、預言の言葉である。この教会は、生ぬるい教会であったと見える。「熱くもなく、冷たくのなく、生ぬるいので、あなたを口から吐き出そう。」という裁きの言葉が語られる。その言い訳として「自分たちは富んでいる。豊かになった。何の不自由もない。」という。しかし、預言お言葉は「そうではない。あなたがたはみじめな者、哀れむべき者貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気付いていない。」と譴責している。

この言葉は、真実の現実を知りなさいということである。「豊かさ、貧しさ、さわれさ、間が見えないことに気付かなない自分」今事実をしり、悔い改めないと自ら裁きを受け、敗北し、滅んでしまうと警告している。しつけられない不幸な子供たちは、自分では何もわかっていない。ひたすら、思うままに行動し、暴れまわる。しかし、そのまま大きくなってどのようになるのか創造するダニ恐ろしい。それを知っているのは親であり、教師である。どんなことがあってもこの子を救うには愛による忍耐で抱きしめ、忍耐し、待つこと出る。共に苦しみ、共に泣き、共に分かるまで努力することである。このことがない限り救いはなく解決もない。

イエスは「戸の外に立って、たたいている」心の扉があくまで。神様は待たれる。そして呼びかける。祈られる。迫られる。救い主なる生ける神、イエス・キリストは呼び続けられる。心の戸があくまで、手が血で染まり、手が砕けようと、ノックをやめられることはない。人生の師、イエス・キリストは真実の幸せを人々のために与えるために、十字架に架かり犠牲を払い死んでくださった。そこに神の愛がある。そこに救いの光がある。人が、どうすべきか真理の道がある。

今週のみことば
「すべての訓練は当座は喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。
 しかし、後になればそれによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」
                                 へブル   12章11節


ページのトップへ
  
2006年の礼拝メッセージ一覧へ

他の年の礼拝メッセージへ

トップページへ
年 月 日礼拝メッセージ