年 月 日礼拝メッセージ
「人の幸せと復活の希望」     聖書の箇所:ヨハネ11章17−45節

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)

 人の人生は、どんな人でも死で終わる。そして人は死を迎えると必ず悲しむ。死は、儚く、孤独、不安である。人間にとって「死」は自然である。形あるものは必ず消滅する。自然なことが自然に起こることになる。人は決して自然として割り切ることはできない。何故死ぬのか。死んではならないと言う感情が付き纏う。人は「死」の不自然さから解決を求めて、安心の道を求める。
「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書3:11)この聖書の言葉から、本来、人は永遠に生きるのが自然であるのである。ロマ書では「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」(3:23)「罪」を犯したために「神の栄光」、即ち、「永遠の命」が分からなくなっている。罪とは、神を疑い、信じることのできない人の心の闇である。マタイ福音書5章48節には「あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者になりなさい。」といっているように、神を信じることは、神の正しさ、清さに生きること、「神に喜ばれる」(ロマ12:2)人として生きることである。それは、また、神のみ国の民としての生きる姿でもある。いえば、天国に生きる永遠の命に生きることを意味する。神を信じない人は、自分の意志で生きる、自分の欲情が神となる。「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。」(ヤコブ1:15)と言っている。罪は混乱と破滅、孤独と不安を生み出す。「死」は不安と孤独、絶望となる。
 しかし、使徒パウロは「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストにおける永遠のいのちである。」(ロマ6:23)であると言う。「罪」は神との信頼の破滅であり、関係の断絶である。しかし、その罪のためにイエス・キリストは人と神の和解を取り持つために「罪の贖い」となって犠牲になってくださったのである。「キリストに代わって願う、神の和解を受けなさい。神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためである。」(コリントU、5:20−21)神との交わりの回復は、信頼の回復である。
キリストは「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」と約束されている。ヨハネ福音書の11章にはイエスが愛されたラザロが重病にかかり死んで葬られ、悲嘆にくれる姉妹のマルタとマリヤの話がある。この二人はイエスがおられたら祈りをもって奇跡を起こして癒してくださったと悔しがる。しかし、それを聞いてイエスは「わたしを信じるものは死んでも生きる。」と言われた。そし実際に墓に入ってラザロをよみがえらされるということが起こる。イエスは、人は死で終わるのでなく、必ず、よみがえることを教えられたのである。たしかに人は死ぬ。しかし、神を信じることは、永遠に生きることを約束される。神の御心に生きるとは神の国、永遠の命に生かされることになる。「死人は朽ちないものによみがえらされる。」と聖書は約束する。死は永遠の一つの通過となる。夜寝て、朝目覚めるように、キリストの再臨のとき栄光のからだに変えられて神の国に生きることになる。クリスチャンは「生きるのも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」(ピリピ1:20−21)栄光が主にあるように。

今週のみ言葉
  「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」
                                               コリントT、15章20節



ページのトップへ
  
2006年の礼拝メッセージ一覧へ

他の年の礼拝メッセージへ

トップページへ