「共にいてくださる慰めの主」
   ルカ24章13−43節

人間はいつも起こっていることは自然なこととして受け入れている。
しかし、経験しないことが起こると奇跡が起こったといって信じられなくなる。
死人がよみがえることは起こりえないことが自然であるので信じられないことになる。

イエス・キリストは「わたしはよみがえりであり、命である。」(ヨハネ11:25)と言われた。
実際に、イエスはよみがえり多くの人々に出会われた。
コリント第一の手紙15章の5節には「聖書に書いてあるとおり、
三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。
その後、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。」と記している。

そして、パウロはなおも「もしキリストがよみがえられなかったとすれば、あなたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなおつみの中にいることになろう。もしわたしたちが、この世の生活でキリストのあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最も哀れむべき存在となる。」(コリントT、15:17,19)というのである。

弟子たちの中でさえもなかなかキリストの復活を信じることはできなかったようである。
事実に出会うことによって確信することになる。
多くの弟子たちは、イエス様が十字架にかけられなさって後、失望と落胆の中に故郷に帰るものは多くあった。
二人の弟子がエマオの村にかえる途中であった。

エルサレムで起こった出来事を語りながらイエス様の最後の裁きや十字架にかけられたことを語り合っていた。そのときイエス様が近寄ってきて共に歩いて語りかけられた。
しかし、彼らの目がさえぎられてイエス様であることが分からなかった。

そこで、エルサレムで起こったイエス様の事を一部始終話し、仲間のものが墓に言ってみるとイエスはおられないというのです。自分らには何のことだか分からないのですと話したというのです。
このことからイエス様は、かれらに聖書からキリストについて預言されていることを語られた。

走行していると夕暮れになり一緒に泊まることになり、家に入り食事をしようと祝福の祈りをされたとき、二人はイエス様であることに気付いた。
そのときイエス様の姿が見えなくなった。彼らはイエス様が聖書について語られたとき「お互いの心が燃えたではないか」といって驚き、すぐにエルサレムの仲間のところに帰って食事をしながら報告していると、イエス様が「安かれ」といって、共に食事された。そして、「エルサレムで力を受けるまで待ち望むように」言われた。
その力とは「聖霊」のことである(使徒行伝1;8)。

そして、彼らはやがて「聖霊」を受ける。そしてイエスが何故十字架にかかり、復活されたのか理解し、確信するのであった(ヨハネ14:26)。罪の赦しと永遠の命への確信を与えられ、どんなときでもいけるキリストが共にいてくださり、教え、慰め、励ましてくださることを体験するのであった。

イエスは最後に「見よ、わたしは世の終わりまで、いつでもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)と言われた。人は死で終わるのでなく永遠に生きるものとしてくださる。そして、今現在を復活の希望をもって人生のどんな試練や困難も「希望は失望に終わることはない。」(ロマ5:5)と約束して助けてくださる主である。


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