「キリストの愛と母の愛」    コリントT、13章4−8節

 毎年、5月第二日曜日は「母の日」である。カルビンは「神の愛と最も似た愛は母の愛である」と言った。子供は母の愛なくして育てられない。母をなくした子供には母に代わる人をあてがわなくては育てられない。

 最近のニュース4人の子供を殺した容疑で逮捕された人がいる。すぐに切れる若い両親が幼児を虐待し、殺すという事件が後を絶たない。両親の愛と理解がないところには子供の幸福はありえない。人は愛によって生かされる。人が愛をなくすときに人は鬼になる。家庭に愛が失われ、親が鬼になるとき家庭は地獄とかす。それだけ子を育てることは親の愛が試(ため)されることでもある。

 食事、排泄、沐浴、日常の世話は切れることなく気が抜けない。たって歩けば人時として目を離すことができない。病気になれば付きっ切り介抱する。物心付けば習い事が始まる。子供に夢を託して、幸せを祈って勉強に打ち込む。育つ性格を見ながらいろいろと心配する。「這えば立て、立てば歩けの親心」と昔から云われる。親の子の幸せを思う思いは変わらない。親の労苦は言葉や形では表せない。

 一心に親の愛情を受けながら育っても子供はその愛情を理解しすることが少ない。「親になって親の気持ちが分かる。」とよく云われる。自分が子育ての大変さを経験して初めて親の心を理解することになる。「親孝行しようと思う時には親はいない。」とも云われる。

 母の日にお母さんへの感謝を表すのにカーネーションを送ると言う習慣はキリスト教会から始まった。1900年代のアメリカヴァージニア州が起源といわれている。
1905年5月9日、アンナ・ジャービスという人の母親が亡くなった。やがて彼女は、「亡き母を追悼したい」という想いから、19085月10日、フィラデルフィアの教会で白いカーネーションを配った。これがアメリカで初めて行われた母の日であるようだ。そして、この習慣がアメリカのほとんどの州に広まった。そして1914年、その時のアメリカ大統領だったウィルソンが5月の第二日曜日を母の日と制定したと言うのである。

日本で初めての母の日を祝う行事が行われたのは明治の末期頃で、1915年(大正4年)に教会で祝われ始め、徐々に一般に広まっていったと伝えられている。昭和に入ると3月6日を母の日としたようである。この日は当時の皇后の誕生日であったという理由によるらしい。現在のようになったのは、戦後しばらくしてからだと言われている。

 また、一般に広く知れ渡ったのは1937年(昭和12年)森永製菓が告知を始めたことがきっかけとも言われている。 森永製菓の創始者である森永太一郎は伊万里の資産家の子供であったが、幼少の頃、倒産し一家離散して辛苦をなめ数奇な人生のめぐり合いの中で渡米、洋菓子の製法を身につけることになる。人種差別に苦しみ、悩み粉労するとき、わけ隔てなく世話をしてくれる白人のクリスチャンに出会い、キリストに導かれて救われる。帰国して小さな製菓工場を作り、リヤカーにアメやチョコやケーキを積んで行商を始める。その車の上には「キリスト・イエス罪人を救わんために世に来たりたまえり。義は国を高くし罪は民をはずかしむ」と言う聖句を書いて歩いて品物は飛ぶように売れ、今日の森永製菓の基礎を築きキリストの愛を実践した。

 現代の日本では豊かな物質生活にありながら人間の品性や公徳心、家庭教育の必要が叫ばれる時はない。日本の社会において家庭や国家が問われている。愛国心を間違った国家権力で押し付けて悲惨な経験で終わった太平洋戦争の傷跡の後遺症であろうか。本来、人間は幸福を求めて家庭を築く、家庭は家族の愛によって成り立つ。両親は家族を守り、育み、育てるのが建前である。親が子を愛する子が親を敬い愛するいとおしい愛は法律の問題でなく人間の本質的なり方である。

 国家もその家族の延長線にある。罪多い世界の中では、国は国民の生活の安全と命を守ることが国家の本質である。国家とはだれでもなく国民自身である。誰かが国家で誰かが国民として別々ではない。国家の安全と安定が失われえるとき家庭の平安と生活の安定はない。国民がいる国家がある。法律で愛国心を命令される以前として国民には国家を愛することが自明のことである。国家の安全や安定は国民の自然な愛国心によって生まれ支えられる。現実の問題はその愛国心が国民に全く分からなくなっている社会であるのが日本の現実である。

 家庭はその根本的な基礎であると言える。その基本の土台こそは聖書にいう「主にあって両親に従いなさい。これが第一の戒めである。」(エペソ6:1)

これはモーセの十戒の人に対する基本的第一の戒めである。過ち多い両親であれ「主にあって」家庭が守られるところに家庭の安定と幸福が約束されると言っている。父が家族の責任を持ち、母が家族を支え育む構図がある。その母の影の労苦なくして家庭の幸せはない。「母の日」にその労苦を思い心から主にあって感謝をささげたいものである。両親への感謝の思いが家庭の幸せの土台である。


ページのトップへ
  
2006年の礼拝メッセージ一覧へ

他の年の礼拝メッセージへ

トップページへ

年 月 日礼拝メッセージ