「キリストにある交わりの喜び」    ヨハネT、1章1−4節 

「わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。これをかきおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。」(ヨハネT、1:3−4)

 人間の幸福を定義するのにはいろいろな表現があると思われる。幸福感とは人によって異なるかもしれないが、共通している要素は「満足と平安」である。「満足」とは一人ひとりの個別の願いや価値観、好みにもとづくことが多いと言える。「平安」は人と人との関係による。

時として一人で静かに休養することも大事である。しかし、いつも一人で暮らすわけにはいかない。人は「孤独」では生きていけない。「孤独」はすべてのものからの解放であると共に、「交わり」の喪失でもある。

古来、「人は人の間」と言われるように人間になることは人と共に生きてこそ人間のあり方である。母があり父がある。そこに子が生まれる。母なくして子はなく、父なくして子はない。子は両親の愛によって育てられる。家族の「交わり」が人を育てる。「平安」は人と共に生きることを裏付けられている。

「満足」は自分を中心にした欲望の問題である。「平安」は心の安らぎであって他の人との争いがないことが前提となる。他の人の欲望とぶつかるときにそこに争いが立つ。

キリストは「わたしは平安を残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネ14:27)

「平安」は欲望の節制によって他の人と仲良くして成り立つ。キリストは「わたしの戒めは、これである。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15:12)

そこでキリストは、十字架の上に架けられることをとうして自分を憎む「敵」さえも愛し赦される「愛」を示して、人は寛容と赦しをもって解決し得ないことはないという「平安」の実現の希望の道を示された。

真実の平安をもつことはキリストの心を心とするときにこそ持つことができる。「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい。」(ピリピ2:5)

クリスチャンにとって「平安」すなわち「平和」は最大の課題であり、生活の基本的である。
そこにこそ「満足」と「充実」が約束されることになる。

キリストの愛による「平安」は人と人との強い心の絆が生まれることによる。その第一は、「信頼」である。信頼は心の思いが「言葉」になって互いの理解が生まれる。「言葉」のないところにはコミュニケーションは生まれない。「愛」は絵に描いた餅ではない。具体的な現実である。

その初めは「挨拶」の言葉である。第二に、「いたわり」と「赦し」が具体的に生活の中で積み重ねられて「信頼」が強固になる。第三に、精神的であれ、物質的であれ、助けが必要なとき共に重荷を分かち合う心と実行することである。

「互いに重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。」(ガラテヤ6:2)

世反福音書の8章には姦淫の罪で訴えられている女の人がいる。人々は、律法の言葉にこだわり愛を忘れて女の人を非難する。しかし、キリストは人を愛することは赦しであることを教えられた。そこには、人が生きる希望と喜びがあり人としてのしんじつの「交わり」が約束されることになる。

またルカによる福音書19章にはザアカイの物語がある。地も名誉、権力もあるが友がいない孤独な彼であった。罪を犯して非難と中傷、批判の中で裁きにおびえる孤独な女の人。キリストはともにいて最後まで弁護され、生きる希望を与えられる。

ザアカイはキリストを出会い、自己中心な権力者にある過ちを認めて反省し赦罪と償いの行動を起こすときに孤独から解放された。真実の交わり、真実の友によってそれは与えられえる。キリストの平安と充実による交わりはキリストの賜物である。


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