「主に期待する喜び」     ルカ18章1−8節

「イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々譬(たとで)で教えられた。」(ルカ18:1)

 人の人生は期待の連続である。生きることが生かされるために食べること寝ること着ることなどを期待する生活であるといえる。人間は、本来生きるためによくなろうと努力するようにできている。

「人は教育されることによって人間になれる唯一の動物である。」とは有名な哲学者カントの言葉である。「教育とはよくなろうとする努力である」とも言われている。人はどんなときでも絶えずよくなろうと希望をもつものである。明日の日を期待することは、明日を生きる確証でもある。

人である限り、期待と希望をもって生きることが喜びとなる。生きる希望がなくなるとき、それは死を意味する。「イエスは失望せずに祈るべきことを教えられた。」単純にいえば、祈ることは願うことである。

信じることをへブル人への手紙の中で「信仰とは、望んでいることを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(11:1)と言っている。

望んでいる事柄を確信するとは、現実には望んでいることは未完であって、やがてそれは未来に成就するということであり、今日のことでなく明日のことを確信することである。

その確信が希望となる。信仰と希望があるところには祈りが生まれる。信仰と希望のない祈りは実体のない空疎な独り言になる。希望があり、信仰が裏付けられて祈りが実態となり、現実となる。

クリスチャンにとって祈りの定義は豊かで多様である。ここでは単純に、イエスは「失望せずに祈れ」といわれるとき「諦めてはならない」ということになる。仏教の要諦は「諦め」である。現実をそのまま受け入れる態度。

大きな自然に逆らわず、自然と時のなすままに生きることである。それを諦観と言い、解脱を意味する。解脱とは「現世の苦悩から解放されて絶対自由の境地に達すること」を意味する。それは言葉としてはあるが現実には「生きている」限りありえない。

しかし、イエスは「諦めるな」といわれる。自然の営みの法則では解決できないことも、「祈る」信仰と希望の世界には自然を超える超自然の力があることを証明するのである。人間の経験や固定観念を超えて創造主なる全能の神は、信仰の祈りに道を開き、救いと解決、解放の恵みを下さるのである。

イエスは頑固な裁判官と寡婦(やもめ)の物語を語り、道理が通らないことがあってもとにかく「諦めず」に願うときに厳格な裁判官もその願いを聞いてくれると言う信仰の祈りの可能性を示しておられる。

森羅万象を創造し全能であって、善にして、愛なる神は奇跡をもってしても道を開く方である。その神を信じる信仰は、希望の約束の力となる。

まず、第一に、真実の神に希望をもつことである。第二に、信仰を持って確信し待望することである。第三番に、その信仰によって祈ることである。そこに、希望による喜びが生まれ、喜びによる忍耐が生まれる。その忍耐は更なる確信となって強い何者にも動じない人格の恵みとなって実を結ぶことになる。クリスチャンの人生は祈りによる勝利の人生が約束されている。


今週のみ言葉  エペソ6章18「絶えず・・・御霊によって祈りなさい。」


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