「キリスト教会の誕生」   使徒行伝2章37−47節

キリスト教の教会は、イエス・キリストが十字架につけられ3日目に復活されそれから50日目に弟子たちにキリストが約束された聖霊が臨み、聖霊を受ける経験にもとづいてキリストの教会が誕生した。

イエスは弟子たちに神の真意が神の愛にあることを語った。神は「生ける神」であって愛をもって証明された。聖書は人々が当惑と困難、試練迷いあるとき愛のメッセージとして奇跡をもって神の愛を示された。

また、人の不幸の根源は真実の正義を見失い、罪を犯すところに憎しみと争い、混乱と殺人があり、人は悔い改めて神の愛によるあわれみで赦し和解することによって救いがあると教えられた。

そして“敵をも愛”してこそ和解と平和が実現するといわれた。そこに現実に、そして罪の結果の死が克服され、永遠の命が約束される神の国があるというのである。

イエスに共鳴し、従う人々が増えることによって、国家の主流になっていた律法理解との相克が社会問題となってイエスは処刑されることになる。イエスは、迫害され、罵られながら十字架にかけられても敵になった人々を赦して「神の愛」を示された。

イエスは神の愛を生きることは死で終わるのでなく「復活」の約束があることを語り、ご自分は事実、復活されるということが起こった。神の国、永遠の命は神の愛による赦しによって受け入れられ約束される。「神の国」は、永遠である。だからこそ、今の生活の中にあることを強調し、未来に完全な神の国は救い主キリストによって完成されると言われている。

弟子たちは、イエスが十字架にかかり、復活されるのであるが、その出来事の意味を理解できなかった。イスラエルでは当時伝統的にユダヤの王としてのメシヤ(救い主)が、必ず他民族を征服し、神の民ユダヤ(イスラエル)が世界の帝国として君臨するという理解をしていた。

だから弟子たちは、メシヤがあえなく争いに敗れ、十字架につけられることは理解できないことでもあった。イエスは復活の後も弟子たちに現れ、言葉の真実を信じ、「力」を着せられるまで都(エルサレム)で待つようにいわれた。この「力」こそは「聖霊の降臨」の出来事であった。

五旬節(ペンテコステ“50日”の日)に確信のないまま、どのようなことがあるのかも知らないまま、120名の人たちが祈り待ち望んだ。そこに聖霊降臨の出来事が起こった。このことを通してペテロは旧約聖書の預言書ヨエルからその約束の言葉を通してイエス・キリストの真意を人々に聞かせた。そこで三千人の人々がイエスを受け入れた。

聖霊の力は、イエスキリストを受け入れ、イエスを真実に理解してイエスを主と告白する人々となり集団として礼拝を始めた。ここにキリスト教会が誕生したのである。

聖霊は、第一に、イエスが主であり、キリストであること、その教えを理解する力である。第二に、キリストに従う献身の道を行く力。第三に、キリストの福音の喜びを伝える力。第四に、キリストの愛を徹底して生活原理とする力である。

聖霊よるところにではキリストの福音が証しされ、神の国が実践される。そこにキリストの教会があることになる。
キリストは「あなたがたは世の光である」と言われた。

教会は「世の光」「世の希望」「世界の平和」「世界の救いの発信の場」である。

今週の聖書    第一コリント12章27節



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