「共に歩まれるキリスト」   マタイ8章5-13節

 キリストは最後の一週間に繰り返して弟子たちに苦難を受けてこの世を去っていくが、心配しないがよいと言われた。「あなた方を孤児とはしない」(ヨハネ14:18)とまで言われている。

そして「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなた方にすべてのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるだろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネ14:26-27)キリストは自分に代わって聖霊が助け主として一人ひとりに与えられると約束しておられる。

ペンテコステの日に聖霊が弟子たちに臨み教会が生まれた。エペソ人への手紙には「教会はキリストの体である。」(エペソ1:23)と言っている。キリストを信じることは聖霊が内住されていることである。それはキリスと共にいることである。

主イエスは「世の終わりまで、いつまでもあなた方と共にいるのである。」(マタイ28:20)と弟子たちに最後の言葉を残された。具体的には「言葉」としてキリストは共にいてくださるのである。キリスト教は「言葉」の宗教であると言われる。「言は神と共にあった。言は神であった。…言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。…イエス・キリストだけが神をあらわしたのである。」(ヨハネ1:1-14)聖書こそは神の言葉、キリストの言葉である。

ルターは「聖書を人格化すればキリストであり、キリストを非人格化すれば聖書である。」と言ってと言われている。
言葉には霊が宿るとは様々な国々の伝承の中で言われている。言葉は様々な内容を持って人の生活を動かす。言葉には悪魔の言葉もある。人を破壊し、混乱させる言葉がある。悲しませる言葉。苦しませる言葉。憎しみと嫌悪感を与えるものもある。また、慰め励まし、希望を与える言葉もある。人を救ういのちの言葉もある。

「言葉は神である。」と告白するとき、神は、言葉として人々が聞くとき、そこには神の平和と救いの希望が約束されている。キリストがおられるところに「言葉」がある。そしてキリストの言葉には聖霊の命があふれ、生活に具体的な経験として神の恵みがあらわれることになる。

マタイ福音書の8章には一人の老いた僕の癒しの物語がある。百人隊長(中隊長)の老僕が中風で苦しんでいた。イエスに癒しの祈りを求めてきた。ユダヤの律法では異邦人を家に入れてはいけないとあった。そこで百人隊長はイエスに「言葉」をくださいといった。

真実、心のそこからキリストの言葉を信じる彼に「信じたとおりになるように」と言われたのである。そのとき老僕は癒されたとある。このことはキリストの言葉のあるところ、信じられるところに、それは慰め、励まし、希望と救いになることを教えている。

 キリストの言葉を聴くことは「祈る」ことでもある。キリストの言葉を信じる告白は祈である。キリストは信じる人と共に歩まれる。そこにキリストとの交わり、すなわち祈りが生まれる。祈りはキリストと共にある証である。生きた信仰である。そこに恵みが生まれるのである。

 ■今週のみことば     マタイ福音書28章20節




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