「キリストの栄光に生きる」    詩篇32編

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」(コリントⅠ、6:20)

 クリスチャンは人生の目標を与えられている。それは日々の生活の目標でもあり、生き方でもある。

ウエストミンスター教理問答書の第一の問いには「人間のおもな、最高の目的は、何であるか。」、その答えには、「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである。」と言っている。人間の最高の目的は「神の栄光をあらわす」ことである。

聖書に記録されている「栄光」は、多くの場合、神の顕現や臨在があらわされるときに「神の栄光」が表されたと言われている。神の現われと栄光は同じに意味を持つと考えられる。一般には「栄光」は尊厳、威光、すなわち富と権威への崇敬を表している。

要するに神様は「素晴らしい」ということに尽きる。その愛と聖において、善意と正義、真実と慈悲、その知恵と全能(ちから)、誠実と深慮において全き方であることで「素晴らしい」のである。

人生と生活の目的が「神の栄光」を表すとは、神を信頼し、神の御心に生きるときに結果として「神の素晴らしさ」が生活に現れることを言う。

詩篇1篇には「主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた樹の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところ皆栄える。」(詩篇1:2-3)と言っている。

主のおきて、すなわち神の御心に生きるとき生活は神の恵みによって「素晴らしい」結果が表されると言うのである。神の御心に生きることは神の御心を聴くことであり、思いを聴いていただくことでもある。そこに祈りの生活がある。

祈りは神との交わりである。神との交わりこそが神の恵みを生み出す源である。神の助けによって苦しみや、悲しみ、困難や病気などが解決される。

それは、未来のことだけでなく、現在においてもその困難の中にありながらどんな時にも助けられる神が共にいてくださると言う信仰が、希望となって心を支え励ます力となる。そこで大切なのは神との交わりの生活である。その関係が失われるときこそ、神の約束の恵みを失うことになる。

「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている。」(ロマ3:23)と聖書は指摘している。

この「罪」とは神との交わりを失う結果である。神を信頼しない、信じないことにある。神を信じないことは、神の愛と正義を無視することになる。

神を信じることは神の御心を基準に生きることである。神を信じないとき人は自分中心に、自分を基準とする。そこではいつも打算と不信が付き纏う。

人と人とは真実な意味において愛することを見失いがちになり、様々な生活の破壊が生まれる。自分が、他人が受け入れられなくなり心を閉ざし苦しむことになる。

詩篇32編はダビデ王が欲情に翻弄されて不倫の罪を犯す。神の預言者ナタンの忠告を受けて罪を悔い改め神に許しを請い、罪赦されたときの心情がうたわれている告白の詩である。

「そのとががゆるされ、その罪が覆い隠される者は、さいわいである。」(詩篇32:1)

この幸いとは神にあって再生され、神との交わりを回復されることが、祝福の鍵であり、正に、「神の栄光」に生きることである。神を信頼する人はどんな時にも再生と希望が、祝福が実として生活に表されるのである。ハレルヤ



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