「信仰の決断と祝福」  創世記12章1-9節

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、
 見よ、すべてが新しくなったのである。」(Ⅱコリント5:17)

 人の人生は決断の連続であると言える。結婚、進学、就職、住居の決定、病院の選択、電車やバスに乗る、この頃ではエレベターに乗ると制作会社を確かめる。スパーで買い物をするとき産地を選ぶ。しかし、見比べて考えても最後は決断することになる。

 決断するには情報や知識が要る。人生を大きく分けると二つの道がある。神様を信じる人生の道か、信じない道である。聖書は神を受け入れない人をどのように言っているのか。

「愚か者は心のうちに“神はない”と言う。」(詩篇14:1)その結果は「彼らは腐れはて、憎むべきことをなし、善をおこなうものはいない。」と言っている。神様を信じることは神様の言葉、すなわちその教えに生きることであり、心の土台にその神様の戒めと教えによって人生を築くことにある。新約聖書の山上の説教の結論として「神の言葉を聴いて行わない人を愚かな人」と言っている。

当然、神の御心に生きる人、実行する人は賢い人であると言うのである。そこでは岩の土台と砂上の土台が洪水に耐えることで結果を比べている。思いがけない試練にあっても賢い人は動揺しないことを言っている。この「賢い人」は神を信頼する人である。

アブラハムは父テラと共にカルデヤのウルからハランに移住した。ハランでは生活も落ち着いていたが、神は、なおもアブラハムに「わたしが示す地に行きなさい。」と言われた。行く先がはっきりしなかった。しかし、神の示されていると信じて、カナンを目指した。そこで主に出会い「この地をあなたに与える」という言葉を聴くことになる。

人間の決断の動機はきわめて生活的な感覚であったり、欲情的な動機が中心となる。アブラハムが住んでいたのはユウフラテス側の河口のウルであった。古代文明の発祥の地とされるところで高度な経済的、文化的、宗教的にも豊かな地であった。

水利の何かの激変で混乱が人々は不安と困難にあう。アブラハムは全く知らなかった天からの声を聞きウルから出て神の約束される地に行くように示される。家族と共に決断する。そしてユウフラテス川の上流ハランの肥沃な土地に定住する。父テラが死ぬ。主は再びアブラハムに語られる。

「国を出よ、親族に別れよ、父の家を離れよ。わたしの示す地に行きなさい。」と言われる。肥沃な土地、安定した生活があった。しかし、神は、「約束の地へ行け」と言われる。未知の世界である。神は3つの約束をされる。

1、大いなる国民とする。2、祝福の基となる。3、あなたのよってすべての人を祝福する。と言うものであった。この約束は様々な試練を通してイスラエルの国として結実していく。

神を信じるとことは、決断することである。アブラハムにとって新しい神の祝福はその約束を信じて決断することにあった。古い町、豊かな町、安定した生活にありながら、実はそれが決して神の祝福の約束を結ぶことがないときに、神はそこから出て行くように促される。

そこで、行動においいて信じていることを実行に移す時、形のない信仰が更に豊かに見えるようになる。人には愚かに見えることが、神の目には最善になることがある。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。」(Ⅰコリント1:25)

イエス・キリストを信じることは、古い自分と別れることである。古い自分に死ぬことを意味する。新しい神の御心、そのキリストの言葉を実践することの中で、キリストによって示された神の祝福の約束が実を結ぶのである。「決断」こそはキリストの約束の恵みを結ぶ鍵とする。

「わたしは、キリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。
 キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:19)



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