「真実の理解者キリスト」      ヨハネ黙示録3章19-22節

  「わたしの平安をあなたがたに与える。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あ   なたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネ14章27節)

 人はいろいろな人と出会って関係ができる。人との交わりの中で心のつながりができ影響を与えたり、影響されたりしていつの間にか自分の性格ができていく。人は人によって人となると言われる。人にはいろいろな性格がある。
その多様な性格が個性であり人となりとなる。個性は他の人との違いである。

もし、この世の中でみんなが同じ個性であるとすれば味気ない世の中になる。個性は自立している自分である。それは、また、自分の世界でもある。人になるとは、自分の世界を築きあげることであり人生の終わりまで完成することはない。自分の世界を造るには、生きることを学ぶことから始まる。

 本来、生き物は自分の生きる基本的な方法を神様から与えられている。母親の乳房を求める。快適に過ごすために赤子は泣いて自分の意志を知らせて助けを求め生きる。色んな人とであって学び、知識を取り込んで自分の欲求を満たして幸せを求める。考えれば人の生は自分の世界を造るための闘争であるともいえる。必要なものを求めて生きることになる。生きるために自然と他の人から取り込むことで成長し、幸せを求めることになる。

 そうすると人は生まれたときから争って物や知識を外から取り入れて生きることになる。しかし、人々からもらい、受けるものや知識であれば、あるときには手に入らないときもあり、人々からの好意によって受けることになり、人々との駆け引きになり、手に入らないときには争いとなる。人間は自分のことばかり考えて他の人のことを考えないときに争いとなる。そこで譲り、思いやり、分かち合っていきりことがなければ人は共に生きることはできない。人は、愛によって生きることによって人になると言える。

 だから、人は、生まれて愛されて行き届いた世話を受けることによって安定した性格になる。人は、助けてくれるという信頼の心が造られる。反対に愛に恵まれない子供は欲求が満たされないために不安になる。人が信じられない、不信感を持つように性格図けられることになる。

その度合いによって自分ができることになり、幼児の基礎的体験が一緒その人の性格を支配するとも考えられる。また、現在は科学の世の中である。科学は物事を疑うことから始まる。原理が分かれば受け入れられる。人の心はそんなに簡単に分かるものではない。人と共に生きる原理は愛し合うことにある。愛し合うことは信じることによって成り立つ。

世の中が豊かになっても人の愛が失われるときに人間の生活と人生は破壊される。愛が失われ、不信と闘争の連鎖が生活であり、人の生涯である。そこには真実の平安はない。

 人は、お互いに真実に愛し合うことによって真実の平安を得る。キリストによって示された神の愛に出会い、キリストを信じて神の愛に生きるときに真実の人間性が与えられる。言い換えれば、人は、真実に理解され、信頼されるときに自分を見出し、自分のゆくべき道を発見することになる。

キリストはどんな人間でも徹底して、どこまでも共にいて理解し、人間である限り成長の可能性を信じて待って、共に歩いてくださる方である。心の扉を開けてキリストを受け入れるときそこにはこの世では得られないキリストの不変の平安が与えられる約束がある。「すべての事において勝ち得てあまりがある」(ロマ8:37)



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