「主を喜ぶ力」   マルコ5章1-20節  

 「主を喜ぶことはあなたのがたの力です」。(ネヘミヤ8:10)

 マルコによる福音書の5章には一人の重度の精神障害者の人の癒される証しが記録されている。この人は正常な家庭生活や社会生活ができないために墓場に隔離され、監禁状態にされていた。幻想、自虐、凶暴、被害妄想などの症状のために鎖でつないでおくと言う状態であった。

当時のイスラエルでは墓場は普通、横穴を掘ってミイラのような状態でなきがらは安置されていた。そのようなところに隔離されていた。本人は妄想の世界にいるのであるが、家族の気持ちは、計り知れない悲しみであり、苦しみである。聖書は家族の関係には触れていない。愛する家族を鎖で繋がなければならない辛さ。

今日の治療でもこの悲劇的で破壊的な精神病の原因を分析できたとしても、健康にすることは不可能であると思える。生活の中で起こるどうしようもない事故や病気、混乱や紛争は本来的に起こってはならないことである。使徒パウロは「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」(エペソ6:12)と言っている。

重度の精神障害だけでなく、意味不明に、原因不明の人を不幸にする力は、正に、悪の霊による災いであるとしか言いようがないといえる。神のない世界、そこに闇の世界がある。人の不幸、生活を破壊し、人生を決定的に混乱させる悪の力、悪魔である。悪の霊の支配は、神の御子キリストの前には苦しみであり対決である。

悪霊につかれたこの人にとっては、神の存在は自分を苦しめることになる。闇は、光なるキリストの前には存在は否定される。彼は「わたしを苦しめないで」と叫ぶ。しかし、イエスは権威をもって悪霊に失せ行くように命じられる。そこで、イエスの祈りによる奇跡の異象が起こる。

イエスが悪霊に豚の群れに入れと命令された時、その群れはなだれのように湖へ駆け込み溺れると言うことが起こった。その結果、重度の精神障害者は完全に正気になる。寛解(精神異常が直る)するのである。彼は、イエス様の弟子になりたいと願い出るが、イエスは、まず「家族によくなったことを知らせよ」と言われる。

彼は、家族に癒されたことを報告するだけでなく、生まれた村々にキリストの恵みと祝福を語り伝えた。癒され、救われ、変えられた喜びを語らざるを得なかったのである。

 「喜び」は人を動かす力である。「喜び」は人を変えさせ、行動を変えさせ、生活を改めさせる力でもある。人間は「喜び」によって努力と苦難を克服することができる。しかし、「喜び」そのものが破壊的であるとき、結果は悲劇となる。

クリスチャンは「主に喜ばれるものが何であるかを、わきまえ知りなさい」。(エペソ5:10)が生活の基準である。そこでは「主にあっていつも喜ぶ」。(ピリピ4:4。3:1)ことこそが生活の土台であり、生活の結果となる。主は、いつも生きて働き、助け、導かれる方である。

主を喜ぶことは、主に使え、主にある喜び、キリストの福音を伝える喜びである。クリスチャンライフはいつも喜びにあふれたものとなる。そこには確信と勝利と希望が約束されているからである。

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