「感謝にあふれる日々」     ヨハネ9章1-12節

 「人間とは何か」とは、古来、哲学や宗教の根本的な問いかけであった。
たしかに、生きることでは動物と共通することが多いが、はっきりした違いは多くある。人間の特性は、愛すること、教育、文化、言語、道徳、宗教などがすぐ挙げられる。

聖書は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」(テサロニケⅠ、5:16-18)
ここでは「喜ぶこと」「祈ること」「感謝すること」が求められている。喜びは感謝と祈りの結果である。人間が、人間として生きる特質は神様を信じることにある。

 聖書は「はじめに神は天と地を創造された」。(創1:1)という。そして、6日の創造物語においてすべて自然の創造の後に「神は自分のかたちに人を創造された」。(創1:27)といっている。人は、神に生かされている。生かされるというメッセージがある。

 人間は、自分の力で生きていると思い込む。しかし、よく考えると、生きることができるようにされていることが分かる。自然からはなれて生きることはできない。また、人は一人では生きることはできない。人は、生きること存在そのものが支えられ、生かされているといえる。いのちの根源者である神様に支えられ、生かされている自分がある。

このことは神様を信じるときに初めて経験する感動である。美しい雄大な自然、土地に根ざし、育つ植物、それを食して生きる動物、その恩恵によって生きる自分の不思議な存在。そこに創造主なる神の見えざる知恵と力、善意と愛が迫る。人は、見えざる神のみ手を見る。「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」。(詩19:1)人は、感動する。神に出会い。その恵みを知って感動する。感動は「感謝」となる。「感謝」は、神様への賛美となり、賛美は「祈り」の発露である。

ヨハネ福音書の9章には一人の生まれながらの盲人の癒しの出来事が記録されている。イエスは不思議な方法でこの人の目を癒される。唾でドロをこね、目に塗ってから、シロアムという池に行って洗えというものであった。その盲人はイエスの言われるままに行動する。そうすると視力を回復するのであった。

そこでパリサイ人や律法学者は、その日が安息日であったために安息日規定では病人を癒すことは「医者」の仕事であるから禁止事項としていた。このことのためにイエスは罪人扱いされ、神の恵みの奇跡が何故犯罪者によって起こされるのか議論が巻き起こる。律法学者の解釈による規定が優先するのか、イエスが神のメシヤである証明としての奇跡が問われることになる。

しかし、神の御心の最優先は神の愛がイエスによって表されることである。神の奇跡は、神の愛の証明であり、神の全能の証明にほかならない。癒された人は、イエスが「神からきた人でなかったら、何一つできないはずです」という。律法学者等は人間の知恵や伝統や習慣の思考に束縛されて真実の神のみ心を見失っているのである。

生まれながらの人には見えないが、真実にキリストに出会い、創造主なる神の恵みに出会うときに生かされている自分に出会うのである。そこに、感謝と喜びが祈りの生活となって現されるようになる。クリスチャンにとっていつも喜び、感謝することは、キリストを信じている証明であり、真実の人間の証である。


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