「広がる喜びの知らせ」    ヨハネ4章27-38節 

 「罪人が一人でも悔い改めるなら、神のみ使いたちの前でよろこびがあるであろう。」(ルカ15:10)

 人間が生きるには生きる喜びが支えになる。喜びは生き甲斐でもある。毎日の生活が充実していることである。しかし、人生には喜怒哀楽が交差するものである。人の幸せは衣食住が足りことが基本であるが、根本的にはどんな境遇にあっても自分を見失わないで物事を乗り越えていく自分であることである。

聖書は「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道もしている。わたしは飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。」(ピリピ4:11-12)といっている。その秘けつはどこにあるのであろうか。それはそのことばに続いて言われている「わたしを強くしてくださる方によって、何事でもすることができる。」と言うことばに鍵がある。「わたしを強くしてくださる方」とはキリストを意味する。キリストを信じるものに与えられる確信である。

キリストとの関係がないときには、ひたすら自分が頼りである。自己実現に振り回されるとき、人間は限りなく弱いといえる。欲望と欲情の連鎖の中で迷いと争いに明け暮れることになる。本来、人間のうちには正しく生きる基準や力は見失われていて極めて悲観的な存在である。それが罪である。法律の世界はお互いが生活する最低のよりどころであり人間の心を最後まで律する力はない罪深いものである。

キリストに出会い、真実の神を知るとき人は自分の弱さ、罪深さを本当の意味で自覚することができる。キリストを信じることはその神に帰ること、真実に人間として生まれることを意味する。神は、全能であり全治である。義にして愛なる神である。神を信じることは神と共に生きることであり、神の命と力を経験することでもある。キリストを信じるとき人は人生の目的を知り、生きる基準を与えられる。

そこから「どんな境遇にも処する道を実践することのできるものとせられる」ハレルヤ。クリスチャンにとってキリストを信じることは平安と落ち着き、確信と喜びに満ちるものとせられるのである。

そして、この喜びを人々に分かち合うことこそは、家庭、地域社会、世界の平和とよろこびに結びつくものであるといえる。キリストの祈りは、すべての人々が平和の神に出会い、人々が改心して神の子となることである。そのために主は言われる「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を伝えよ」(マルコ16:15)と。

また、使徒パウロは言う「御言葉を宣伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」(テモテⅡ、4:2)と。

その福音のよろこびが宣教の力である。このキリストにある喜びを伝えなければならない。人々の幸せのために。罪の赦しと解放を。永遠のいのちの真理を。その神の恵みを伝えたい。そして伝えなければならない。キリストの喜びのゆえに。

「わたしが福音を宣伝えても、それは誇りにはならない。なぜなら、わたしは、そうせずには折れないからである。もし、福音を宣伝えないなら、わたしはわざわいである。」(コリントⅠ、9:16)


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