「人間の成長と完成」  

「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。」(エペソ4章15節)

 イスラエルのことわざに「子供を教育しないことは、子供を殺すことである」といわれる。人間は生まれるときは白紙である。みんな一緒である。教育することによって人間は人間になれるといえる。教育にはいろいろな言葉で表すことがあるが「よくなろうとする努力」とも一般に言われる。「よくなる」とは「幸せになる」ということである。「よくなる」ことは、むつかしい表現であるかもしれないが「文化の発展」といえる。生きるための豊かさでもある。

本来、人にはうまく生活をよりよく、より幸せにと言う願いがある。それは環境であり、衣食住でもある。また、生活の余裕は、生活を楽しむように求めて文化が発展する。しかし、もう一つの面は、人には、人として善いことと悪いことの基準が求められる。人は、共に生きる存在であるからである。

「よくなろうとする努力」は自己実現の努力でもある。自分の幸せを考えることであるが、人共に生きるときには愛するもののために犠牲になることも求められる。共に幸せに生きることは、共に愛せることが裏付けられて成り立つことになる。自己実現と「共に生きる」ことがいつも緊張関係になる。

人は、いつも人と共に生きる、生活することのなかで自分が試され、訓練を受けることになる。「よりよく」ということは「より人間らしく」ということになる。そこで子供が育ち、人が目指す「どのような人間になるのか」ということが大切になる。

クリスチャンにとって人の目指す目標は「キリストである」。1章23節には「教会はキリストのからだである。」(1:23)といっている。からだの中枢は「かしら」である。「かしらとしてのキリスト」を目標とする生活である。キリストは「神の愛」を示された。人が生きる基準としての「神の愛」を示されている。

そのキリストの愛は、「希望を生み出し、希望は失望に終わることはない。」言う。愛するものと共にどんな境遇をも克服する力と知恵が約束されているからである。キリストを目指し、キリストに学び、キリストに従うことによって、キリストに近づき、キリストに似せられるようになる。人としての真実の成長の道がそこにある。

キリストにあっても、人はそれでも迷い、自我に振り回される誘惑に陥り失敗を繰り返すことがある。だからこそ、日ごとにキリストを見上げ、神の言葉に養われ、祈り、学び続けなければならない。成長は日々に続けられる。完成はキリストの再臨のときにこそ、栄化のとき、神にかなう完成がキリストの福音の約束によって成し遂げられる。

人は天与の能力を引き出す教育は道具の延長線上にある。失われた心、魂の教育は神の言葉を刻み込み、キリストの形を形成することにある。キリストの示された神の愛こそは人間性を回復する道であり、人間を真実に生きる幸せの教育といえる。



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