「共に喜び、共に泣く」  マタイ11章28-30節

 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
                           あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)

 何一つ苦労のない釈迦が城から出て村を歩いていくと泥まみれで働く人に出会い生きるのは働かなければならないことを知る。また少し行くと道端に倒れている病人に出会い、生きる苦しみを知る。そして、次に腰の曲がった老人が杖をついて歩く姿を見て人間はみんな老いていく切なさを知る。しばらくすると葬列に出会う。人間の死で終わる。人生のはかなさを知る。そしてこの生労病死を通して人生の無常を悟ったといわれている。そして、輪廻転生と諸行無常のとらわれから解脱の道を求める。現実には諦めて生きることになる。解脱は自分で悟りを得ることになる。

しかし、すべての人間はそんなに強くも無く、聡明でもない。そこで悟りを開く修行をしても生きる凡夫は邪念に支配されるのが精一杯である。そこではくよくよしないで諦めることが肝心と言うことになってしまう。諦めは解決にならない。

 先日、86歳の足の悪い老人が杖に寄りかかりながら教会にこられた。「生活に困っているので相談したい」というのである。「経済的なご相談ですか」というと、「実は、信仰についての相談です」と言われる。善光寺や四国の遍路にも行った。しかし、今は一人暮らしで心に平安が無い。小さいときに教会の病院でお世話になったので思い出した。生い立ちから、人生の苦労話、86歳になって孤独、趣味はあるが淋しい。そして死にたくないという。語りながら泣き、また語っては嗚咽する。どうしたらいいのかわからないと言うのである。耳も遠く、私はひたすら聴いいて、うなずくだけである。やがて話が区切れた。

イエス様を信じるとき天国の約束を下さる。神様は愛しておられる。大きな声で怒鳴るように話す。そして祈った。イエス様を信じるときに、みんな神の家族だから教会はおじいさんの家であり家族だよと言う。そこには安堵と感謝が漂った。

聖書に「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(ロマ12:15)がある。
人は誰でも平安を求めている。キリストはいつもどんな人にも、区別も差別もすることなく受け入れてくださる。

キリストはひたすら「待っ」てくださる。「聴い」てくださる。そして問題を「理解」してくださる。
そして「共感」してくださる。共に「解決」の道を考えてくださる。そこに真実の信頼が生まれ、揺ぎ無い平安が生まれ、生きる確信が、希望となる。そこでは諦めと挫折は消える。

「神は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。」(ヨハネ14:16)

ここでいう「助け主」はカウンセラー(相談者・助言者)である。その「助け主」は「真理の御霊」である。聖霊はイエスの霊として人間の真実の生きる道を教え導いてくださる。

また、聖霊は生ける神としていつでも、どんな時でも、いかなるところでも共にいて救いの道を示し、導かれる。信仰がその救いを現実とし、希望とする。

 86歳のおじいさんは、玄関のタイルの上で会堂に向かって正座して、頭を深々と下げられた。感謝と喜びに満ちていた。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」ことこそは伝道である。そこにキリストの愛がある。伝道する人にならなければならない。それは愛の人になることを意味する。

 今週のみ言葉 
   「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」ローマ書 12章15節



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