「家族の絆と永遠の命」 マタイ15:21~28

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)

 この聖書のみことばは阪神チャペルセンターの墓碑に刻まれている言葉である。
これは、主イエスの約束の言葉である。人にとって確かなことは死で人生は終わるという事である。
死は儚く、空しく、寂しく、悲しいものである。自然の営みとして受け入れる事は人間にはでき難い。
死や病気は、人間にとっては不自然に思うものである。不自然とは、そんなことはあってはならないという、ごく普通の感情である。

死を迎える時、誰でも自然に受け入れられない気持ちになるのが普通の人の心である。それは、死の意味がわからないからである。森羅万象、自然の見える世界は変化する。人の体も時と共に老いていく。蝶はさなぎから成虫になる。さなぎの時と孵化して羽を伸ばして空を羽ばたく姿が全く違う。その形は変わっているが、その命は同じである。人の死も新しいよみがえりであると聖書は言っている。

聖書は「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」(伝道の書3:11)と言っている。
神を見失う時に、人は有限な現実の存在でしか自分を見る事ができなくなってしまう。神を信じる事は、神を信じる事によって人の心に本来与えられている霊性がよみがえる事であり、神に愛されている自分を生きる事にもなる。見える自然の世界は変わる。しかし、神の愛に生きる時に有限と変化の世界から無限と不変、永遠の命の世界に生きる事になる。

愛は存在を時間と空間を越えるものに変える絆であり、力であり、命である。
主イエスは「神の国、永遠の命は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:21)と言われている。

家族は命でつながれている。その命は愛である。愛が失われた命は悲惨である。愛があって命が生きることになる。私は先祖の墓にできるだけ年2回は行くことにしている。命を受け継いだ自分、幼少の時に受けた父母の優しい思い出を偲び、生かされている自分を感謝する。そのやさしさが家族の結ぶ愛である。姿はなくても愛は生きている。

愛は、時間と空間を越える永遠の存在である。愛は信頼によって結びとなり、苦楽を共有し、共に喜び、一体とする。信仰の絆は、神の愛の絆であり、真実の家族の証しでもある。
クリスチャンの家庭には、見えないが信じる心に活けるキリストが共にいて下さるのである。そこに礼拝が生まれる。賛美がある。聖書の言葉に養われ、神の国を生きる希望を確信する事になる。




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