「喜びの福音」  使徒行伝8章1-13節

「ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べはじめた。・・・それで、この町では人々が、大変な喜びかたであった。」(使徒8:5,8)

 福音という言葉はグッド・ニュースと言う意味であり、イエス・キリストがこられた出来事を言う。正に「よい知らせ」である。しかし、イエス・キリストがこられて「神の国の福音」を伝えられたときに人々は理解できないで反発し、批判した。

人々は、モーセの律法を守ることこそが神の国の民であり、永遠の命に至る道と確信していた。
それはまず、律法を知ること、伝統的に解釈されてきた詳細な規定までを知ることがないと守れないことになる。実際には、律法の専門家で無い限りまず、知ることができない。知ることができないとその律法は完全に守ることは不可能に近い。律法学者は律法を解釈で拡大解釈や任意解釈でその意味を骨抜きにしてしまっていた。キリストはこの偽善的な態度を厳しく批判された。

そして神の前には正直であるべきこと。人間の罪深さを素直に認めて、罪を悲しみ、罪を告白して、悔い改めることを勧められた。神様は愛である。罪を悔い、反省して悔い改めるものを赦してくださると約束された。律法の精神は人を裁くのでなく、人を赦し、再生させ、救うことにある。律法は罪を教えることにある。人は赦されなければ生きることはできないと示された。

 キリストの神様の愛のみ心は偽善的な律法学者の嫉みと中傷で有罪となり、敵をも愛する神の愛を証しつつ有罪とされ十字架につけられることになった。自分を非難し、攻撃し、罵る人々を最後まで赦し、赦すのみならず、祝福し、その罪をとりなして祈られたのであった。

人々、キリストを迫害する人々までキリストは生ける神であると告白した。正に、イエスは、神の救い主キリストであったのである。キリストが犠牲になりしなれることによって人々の憎しみと争いの罪を赦すために身代わりとなられたと言うことがわかってきた。

たしかにキリストが祈られるとき、聴力障害者は癒され聞こえ、視力障害者は見えるようになり、生まれながらの歩行困難な身体障害者は歩くようになった。疲れたものはキリストの言葉に力を得た。キリストの言葉は人々に生きる希望となった。孤独な人の朋となり、ししえたげる人々に支えとなられた。

キリストを信じた人々は迫害された。人々は、家庭を離れ、職を失い散らされていった。その一人がピリポである。彼は、サマリヤの町に逃れていった。サマリヤはユダヤの人々からはモーセの律法解釈の対立から差別され、断絶されていた。ピリポはサマリヤに逃れたのであろうか。サマリヤの人々もモーセの律法を固く信じていたが、罪赦されてやがて神が赦しと救いもってキリストがこられると言う約束を信じていた。

ピリポは、イエスこそ、キリストであることを伝えた。そして、キリストを信じるものには救いの印としての業が表されると祈った。不思議な奇跡が次々と起こり、人々は救われ癒された。そこには天国にあるよろこびの声が神を賛美する声が上がった。迫害と不安と孤独の中でピリピはキリストの勝利と救いを語ったのである。

如何なる時にも、主イエス・キリストは信じるものと共にいて福音の喜びを証してくださるのである。



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