「キリストの十字架の意味」   へブル12章1-11節

 「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(へブル12章2節)

 世界最古の義務教育はイスラエルに始まったと言われる。また、イスラエルでは聖書を朗誦できたことを成人の日の証としているといわれる。父祖から伝承されたモーセの律法を読み、知ることが一人の人間として生きることができることを意味している。聖書を知知ることは、自分で読むことができることであり、知ることは守ることの前提である。聖書の教えに従って生きることは、また、自分で人生という家を建てることを意味した。

 それは一人の人間として自立と責任が持てることでもある。また、それは一人の成人の誕生であり人生の新しい出発でもある。聖書の御言葉を設計図として、その図に合った資材を選び人生の家を建てあげていくことになる。出来上がる喜びに充実感を持つこともあり、失敗もあって落胆と失望、疲弊と投げ出したくなるときもある。

しかし、人生の終わりまで完成を目指して進むことになる。ルターは「クリスチャンの人生は悔い改めの生涯である」と言っている。悔い改めは、セルフリフレクション(反省)に始まる。自分を見ることでありいつも聖書の物指で精度を確かめ、間違いを発見しては反省し、訂正し、やり直す、それが悔い改めにほかならない。訂正を繰り返して完成を目指すのである。

 「信仰の導き手、その完成者なるイエス・キリストを仰ぎ見て走る。」(へブル12:2)と言っている。イスラエルの格言に「人生のもっとも幸せなことは、よき師に出会うことである。」がある。聖書のペテロⅠ、2章の25節には「あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに,たち帰ったのである。」と言っている。

プロ野球でも監督は野球のゲームと選手を知り尽くしていることが名監督の条件でもある。創造の根源者であり、不可解な人生の全てを知りつくしておられるキリスト、そのかたが真実の監督である。だからこそキリストの御心に従って「神に喜ばれ」(ロマ12:2)「神の栄光をあらわす」(コリントⅠ、6:20)人生の完成を目指さねばならない。そこにその目標に向かいながら完成する喜び、創造するよろこびが生まれることになる。

キリストの御心は、キリストの十字架の出来事に表わされている。人は、しばしば共に生きる中で、混乱と混迷に陥り、憎しみ、裏切り、争いが錯綜する。そこには失望と絶望が纏わりつく罪の中にある。失敗と絶望である。その罪を贖い、再生する道こそはキリストの十字架の真理である。それは神の愛の赦しと回復の道である。

キリストの十字架は、また、人の根源的な罪深さを示す鏡でもある。それは、現実の解決しようのない罪深い姿を示す。クリスチャンは日曜たびごとに礼拝に集う。それはキリストの前に、自分の確かな現実を知ることであり、また、ゆがめられた生活を神に喜ばれる軌道に回復する、罪の赦しを通して希望を再度確信するときでもある。

「望み得ないのに、なおも望む、…希望は失望に終わることがない。」(ロマ4:12:8、5:5)

完成への喜びに生きるものとされる。「日々の悔い改め」は「日々、新たな希望に生きる」ことである。
キリストを見上げて、日々、完成に向かって、新たな希望に生きようではないか。




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