「素晴らしい聖餐の祝福」   ルカ22章14-23節

 イエス・キリストは弟子たちと別れの食事のとき、ぶどう酒とパンを指してこれはわたしのからだ、わたしの血であると言って弟子たちに分け与えられた。そして、「わたしを記念するためにこのように行ないなさい。」と言われた。今日、教会では礼拝で聖餐式として礼典となり、キリストを記念して行なわれている。

記念とは聖書の言葉ではアナムネーシスといって「思い出す」ことになる。それは単に思い出すだけでなく「今、ここで」キリストとの出会いを経験することにある。

 一つに、キリストはぶどう酒を「わたしの血」であると言われた。ここでぶどう酒を飲むことはキリストの血を呑むことになる。それは、十字架の上で流されたキリストの血であり、キリストの犠牲を意味する。赦しがたい罪を赦すための贖い、身代わりの犠牲である。

キリストを信じることは、罪を贖われ、罪赦されて神の子とされることにほかならない。人間にとって生きることは、罪を犯さずには生きていけない。キリストは単なる触法的なことだけでなく、真実の義はこころの清さ、内面の清さを云われ、全ての罪の根は欲望が盗みになり、憎しみが殺人となり、欲情が姦淫となると指摘された。「誰ひとり、義人はいない。一人もいない。」(ロマ3:10)と言われるゆえんである。聖餐式でぶどう汁を飲むたびに反省し、罪を悔い改め、罪赦されて新しくされる。

 第二に、キリストは自分のからだとして「パンを食する」ように言われた。キリストのからだを頂くことは、キリストのからだになることを意味する。「教会はキリストのからだである。」(エペソ1:23)また、他の箇所には「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりは、その肢体である。」(コリントⅠ、12:27)といっている。

同じパンを食べることは同じからだになる。すなわち、キリストのからだとしての教会につながることになる。「教会のかしらはキリストであって」(エペソ5:23)かしらの思うことがからだの中心になるように、キリストによって救われた神の民、クリスチャンはキリストにあって一つにされている意味がある。

聖餐は、繰り返し、神の民としての自覚と、神に召された人たち、教会としてキリストのみこころを生きるものとされたことを確認する新しい決断と確信のときである。そして、キリストが最後の言葉として残された使命として「全世界に出て行って、全ての造られたものに福音をのべ伝えよ。」(マルコ16:15)との言葉を実践する民である。とりもなおさず、それは神の平和と回復を伝え、神の国の実現を実践することになる。

 キリストは、人々が一つになることを祈り、願い、その道を示されたのである。真実の救いと解決、平和の実現は、罪の赦しと和解にあることを教えておられる。

聖餐は教会では礼典として重んじられ、その恵に預かる人々はその意味と使命を自覚し、日々新たにクリスチャンとして使命を実現して生きる喜びを確信しなければならない。



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