「賛美にあふれる礼拝」    へブル13章11-16節

 「だから、イエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を,たえず神にささげようではないか。」(へブル13:15)

 創造主なる神を信じることは、創造の不思議な恵と偉大さに目が開かれることである。旧約聖書の時代では、神様を礼拝する祭儀規定があり、罪に応じて様々な贖罪の犠牲をささげる規定があった。しかし、イエス・キリストは罪の本質を教えられ、人間の見える正しさで罪を規定するのでなく、人の心の中にある隠れた罪、欲情、ねたみ、憎しみ、そねみ、ゆがんだ欲望などの汚れが人と生活を破滅させることを示された。

見える正しさではなく心の清さこそが人の幸せと平安のもとであるということである。「人は神に似せて造られた。」(創世記1:27)人は本来神の清さに生きることができると言うことである。しかし、人は、神から離れる、神を信頼することをしなくなるときに、その清さを失った。

正しく生きるために,神を求めた。神は礼拝の道を神の民としてイスラエルを選び、教えられた。その礼拝はいつの間にか習慣的な繰り返しとなり表面上の形式となって、かえって神の民であり、祭儀を守ることで人を蔑視したり差別したりする偽善的な中に脱落していった。神は愛である。真実の礼拝を取り戻すために神のみ子イエス・キリストが人になりその救いの道を示されたのである。

「神を拝するものは、霊とまことをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4:24)ことを教えられ、自らが十字架に死なれて人間の根源的な罪を贖われた。

形式的、表面的、習慣的、偽善的な礼拝でなく、真実(まこと)をもって魂のおくそこから全人格的に悔い改めてキリストの贖罪の愛を経験することが、神の心を取り戻し、キリスト共に生きることこそが真実の平安と幸せを約束されることになる。神との交わりの回復は、御子キリストによる恵の贖いと救いによって可能となる。この交わりとは霊的礼拝であり、そこには神の恵みによって回復された喜びの礼拝、さんびと感謝が生まれささげられる。

真実の礼拝は、感謝による「さんび」を捧げることにほかならない。見えざる神が、キリストにおいて人になられ、神の本質である、その愛を示し、現されたのである。クリスチャンにとっていかなる祭壇も生贄、香炉、燭台もいらない。真実の礼拝の生贄は、こころからの「さんび」の生贄である。(へブル13:15)

恵による救いへの体験による喜び、感謝がささげられることにほかならない。「神は、賛美の上に座しておられる。」(詩篇22:3)さんびがある。そこには感謝がある。そこにはよろこびがある。なぜならば、キリストが真実の救いの道を示すために、神の愛と恵を現してくださったからにおほかならない。神の臨在はさんびによって表わされる。クリスチャンは家にいても、歩いていても、働いていても、食事をしていても賛美が湧いて出てくる。それは活ける主イエス・キリストが共に居られるからである。

「正しき者よ、主によって喜べ、さんびは直き者にふさわしい。」(詩篇33:1)

「イスラエルの神はさんびの上に座しておられる。」(詩篇22:3)


ページのトップへ
  
2006年の礼拝メッセージ一覧へ

他の年の礼拝メッセージへ

トップページへ


年 月 日礼拝メッセージ