「人生を建て上げる条件」  コリントⅠ、3章10-18節

「すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。
そして、この土台はイエス・キリストである。」(コリントⅠ、3:11)

 昨年の末から社会問題化してきている耐震設計違反の問題は多くの人々を不安と悲嘆に陥れた悲しい出来事であった。現在の法制での耐震強度に達していなかった建築物のことである。経済設計とやらで、利益第一主義のとりこになった建築会社、それを、下請けする設計者の不正、審査を見抜けない技術と法制の不備が重なった出来事である。

 建築物は上部に建てるものによって土台が決められ、その高さによって柱の強度が決まる。聖書ではオイコノミアという言葉は“摂理”“神の救いの計画”と言う意味である。これはオイコドメオー“家を建てる”という言葉と同じ語源である。人生は真実の意味で人は幸福に暮らすことが最善である。

しかし、理想を持ち、清く、正しく、善意にあふれた人として生きようとしても、現実は欲望と争いの連鎖になる。そしていつの間にか、本当の自分は「わたしの欲している善はしないで,欲していない悪は、これを行なっている。」(ロマ7:19)自分に気付くことになる。人の本性には本来、人間として自分自身で真実に清く、正しく、生きることは不可能であるといっている。

聖書の記録する主な罪という言葉はハマルテアーであって、本来、“的を外れた”と言う意味である。目標を失った“矢”をあらわしている。どこに飛ぶのかわからないと言う意味である。罪とは“人生の目標を失った”言葉を代えれば出鱈目に生きることになる。キリストを信じることは「神の救いにあずかる」ことである。

救いは、神を信じる、神との信頼と交わりを回復することである。神の教えと御言葉によって再生し、生きることである。そこには「神の計画」がある。神の救いは、人性の回復、その再生、神の御心に沿った人生を建て上げ、完成することにある。

 クリスチャンの祝福に満ちた生活と人生を築くには、その目標にあった土台を築くことにある。土台は、掘る事から始まる。先ず、取り除く、穴を掘る。岩盤に達するまで掘り、土を取り除ける。「この土台はイエス・キリストである」とは、先ず、自分を掘り下げ、自分の弱さである罪を悔い改めて土台を形成する。明確に罪を認めることによって、キリストによる罪の赦しを経験することができる。

「イエスを信じるものを義とされるのである。」(ロマ3:26)この確実な新生なしにクリスチャンの健康と健全な人生の祝福はない。

 家を建てる次の問題は、その目標の高さにある。望みが高ければ柱の強度が問題となる。そこでマタイ福音書の山上の説教の結論としての教訓、「賢い人のように」人生を築くことにある。もちろん、ここでも土台が問題であるが、注目することは「キリストの言葉」を守る、実行することにある。

信じたキリストの言葉が生かされてこそ実を結ぶことになる。「砂地」と「岩」の土台を対比しているが。洪水によってその結果が出る。耐震強度の確実なものは地震の結果で現れる。試練、誘惑、争う、駆け引きなどの人生の岐路にキリスチャンとして神に喜ばれることが何であるかをわきまえ、備えすることこそは勝利と信仰の完成の鍵となる。

キリストへの信頼こそが、いつも希望を結ぶ回復のチャンスとなる。

「生きているのは、もはや、私ではない。キリストが、私のうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:20)



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