「人の命は誰のものか」    マタイ16章21-28節

 「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。
  また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(マタイ16:26)

 官邸メイルマガジンの高市少子化担当相によれば、昨年、未成年15―19歳で517人が自殺をしている。このところ連日のように小中学校の生徒のいじめによる自殺の事件が報道され、また、高校生の履修問題の責任をとって高校の校長が自殺をしている。死を選んだ人々の心の苦しみを思うと悲痛な思いが伝わってくる。

しかし、「いのち」を自ら絶つということは何を意味しているのだろうか。教育者が自殺をすることの意味は、教育の自滅を意味すると言える。自殺者の心理は健康な心理ではない。しばしばうつ状態が引き金になると言われている。一方、無邪気な年齢である青少年の自殺は内面的葛藤だけが原因であろうか。豊かでない過去の時代では子供の自殺はなかったように思われる。

 豊かさの代償に人間関係のコミュニケーションがなくなり、テレビやパソコン、携帯電話が生活を支配している。テレビゲームや映像文化のバーチャルな殺傷、生死の境界がなくなる精神構造化などが子供の心を蝕んでいる。
キリスト教信仰の根幹は、「いのち」の尊さである。

第一に、「いのち」は誰のものかに答えている。「いのち」は「からだ」と一つである。それは「生きる」ことである。「あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買い取られたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」(コリントⅠ、3:19-20)先ず、「いのち」すなわち「自分のからだ」は自分自身のものではない。「神のもの」である。

旧約聖書の創世記には、「主なる神は土のちりで人を造り,命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記2:7)と語っている。「その息が出ていけば彼は土に帰る。」(詩篇146:4)たしかに人は死ぬと土に帰ることになる。「息」とは、へブル語で「ルーハー」と言い、「いのちの息」を意味し、「神の霊」、聖霊を意味する。神のいのちが吹き込まれたときに「人は、人間として生きた」者となる。そこでは「いのち」は神のものであることがわかる。

そこで人生は「神の栄光をあらわす」ことが目的になる。神の栄光をあらわすことは、神に喜ばれる人生を送ることが基本となる。神の喜びは、人が神の御心に生きてその祝福を享受することにほかならない。人の体は神の命、聖霊の宿る神の宮である。

 ここから人は、自分の体を傷つけたり、自殺することは、神の御心に反することであり、最大の罪となる。ましてや、他の人の命も大切にすることになる。戦争や自殺は避けねばならない。それはキリスト者の努めである。

第二に、神に与えられた「いのち」を「いかす」ことは「神の栄光」をあらわすことになる。人間本来の愛すること、いたわること、思いやることなどを忘れた自己中心の欲情に生きることは、人間として死を意味する。生きているが死んでいることになる。

「何が神のみ旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」(ロマ12:2)キリストの戒めは「互いに愛し合う」ことである。キリストによって表わされた真実の神の愛は、恐れを取り除き、勇気と力、希望と喜びを与える。破棄と分裂、裁きと恐怖から赦しと和解を生み、平和と交流を回復する。真実に「生きる」、すなわち「神に生かされている」喜びをもたらす。



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