「三浦文学と私」 (尼崎読書会・荻原麗栄) 2006.11.12.

 三浦綾子さんの作品は、その殆どが「原罪」と「愛」がテーマになっています。
「原罪」は人間として生きているなら全ての人がもつものです。

 私は9歳の時に自分の罪を悔い改め、イエスキリストを救い主として信じ受け入れました。
「罪」というと幼い頃から日曜学校で「うそ、憎しみ、ねたみ、いじわるなど」と習いました。
いわゆる警察につかまるような犯罪などではなく、心の中の問題であると習いました。
その後成長した青年期に、私は三浦綾子さんの作品をたくさん読む機会がありました。
そして読み重ねて行くうちに私は洗礼を受けた幼い時にはあまりぴんとこなかった「原罪」という言葉の意味が、作品を通して深く理解できるようになりました。

「原罪」、それは全ての罪の根源は「自己中心」であること。

単純でわかりきったことのように思えますが、このことに目が開かれてから、実は心が大変軽くなり、それまでの固執した考え方(=「私はいつも正しい」)から解放されはじめました。そして、この恐るべき超自己中心な私のために、イエス様は十字架にかかってくださったのだということを再確認しました。また聖書の中でイエス様がその生涯を通して何を示されたのかをより明確に理解できたのです。

 イエス様は「自分を義として他者を裁く、高慢なパリサイ人や律法学者たち」を徹底的に嫌われました。日常生活の中で私たちは、自分にとって強くストレスに感じる人や物事、ゆるせない事が沢山あるかと思います。そして解決を見出せないでいる時、常にその原因は他者にあると信じて疑わないのが私たち人間の姿です。あの人が、こうだから、ああだからとか、これこれこういう経験をして、こういう家庭に育ったからなどと原因をさぐりがちです。しかし無意識に他者を悪者にして「自分は決して悪くない」という思いが根底にあることについては殆ど気づきません。聖書はそれが罪だと言っていると、三浦作品は伝えています。そして人間は根本的に自己中心なのだから「愛」はないものなのだとも言っています。だからこそ、イエスキリストの救いと、愛が必要なのです、と三浦綾子さんは作品の中でメッセージを送っています。
 私たちはクリスチャンとはいえ、いつも肉なる体を持ち、自分の中の罪と闘っています。しかし、日々の生活の中で誰かをゆるせない気持ちになったり、妬んだり、軽蔑したり、裁いたりしてしまいそうなとき、私たちはいつもイエス様のことを思い出すようにしようではありませんか。
イエス様が「ちょっと待て、お前ばかりが本当に正しいのか?お前も神の前にゆるされた一人の罪人ではないか。わたしはその『自己中心で自分が正しいと思い込んで他人を裁くという愚かな人間の罪』のために命を捨てたのだよ。お前に愛がないのはわかっているよ。私の愛を受け取りなさい。」と言われていることを思い起こしてみたいものです。そして「主よ、ゆるしてください。」と心から祈ったときに、心の重荷がすっと消えていく体験をして参りましょう。

 三浦作品をまだ読んでいない方は、是非おすすめします。人生は毎日が戦いです。しかし、この戦いの中で勝利していくことができる秘訣を聖書からひもとき、分かりやすく表現されている三浦綾子さんの作品を是非読んでみてください。そして読書会にぜひ参加してください。長谷川先生の講解を通して深い学びと恵みの時をもっています。

「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。」
ローマ人への手紙7章24-25節




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