「祈りの祝福」         マタイ6章5-13節

「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存知である。」(マタイ6:8)

 神を信じるクリスチャンには、神の祝福が約束されている。祝福の実が生活に印となって認識できるにはどうすればよいのか。祝福は神の恵みである。神に喜ばれる、神の栄光の現われといえる。神の恵みとその栄光を閉ざすのは,神が悲しまれる原因、すなわち、罪である。

フォーサイス(神学者)は「クリスチャンの最大の罪は、祈らないことである。」と言っている。実際に、信仰生活がいい加減になると「祈り」の生活が消えていく。そして「聖書」日課がなくなっていくことになる。

「祈り」は、クリスチャンの霊的な呼吸であるとよく言われる。現実に呼吸ができなくなると人間は数分もしないうちに命が失われることになる。霊的命としての祈りを絶つことは、現実的に神との関係が失われることを意味する。主にある「祝福の実」を結ぶことを阻害する原因は、「祈らなくなる」ことであり、正に、それこそが神を拒むことであり「罪」の根源である。

「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである。」(マタイ4:4)

生きるためには魂のパンとしての「神の言葉」聖書が不可欠である。しかし、パンは外から入ってくるものである。それを消化して全生活の力と命になるにはそれを消化し、吸収し、エネルギー、命にしなければならない。勿論、神の言葉は人の心に働きかけてそれを受け入れるように働きかけてくださる聖霊の業ではある。信じることによって聖書の言葉が始めて現実に生きたかたちとなって命を萌芽させる。

第一に、「祈る」ことは、信じることによって始まる。信じることによって成長し、信じることによって祝福となって実となる。真実に「祈る」ことは、「信じる」ことと切り離せない。「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、その通りになる。」(マルコ11:24)

祈り求めることが、信じるときに祝福の実となる。祈ることは信じることであるといえる。信仰のない祈りは空気を入れないタイヤと同じである。祈りは信仰によって力として生活を生かすものとなる。

第二に、「祈り」は、信仰による活けるキリストとの臨在、交わりの経験である。現代人は、テレビやインターネットに生活の多くの時間を費やす。それは、受動的な情報の洪水ともいえる。多かれ少なかれ精神的に、霊的に影響を受ける。しかし、クリスチャンは祈ることによってキリストと交わり、キリストを思い、そのみこころを祈りの中で知ることになる。

祈りの中で「神の喜び給う」ことが「喜び」となり、充足と平安を培われる。魂の浄化が自然に生まれる。神の喜び給う喜びが祝福の実となって生活に実を結ぶことになる。

第三に、「祈り」は信仰の告白であり、賛美である。「祈り」のない礼拝は意味がない。「礼拝」は「祈り」である。礼拝は「祈り」で始まり「祈り」で終わる。それは信仰の告白であり確認であり期待であり、希望と勝利の告白でもある。そこに信仰の成長が生まれる。

第四に、「祈り」は聖霊の業であり、恵の業である。キリストの祝福のとりなしが「祈り」となる。真実の祈りは、信じると言う行為の業を超えて、心を開いてゆだねることにある。

そこで初めて祝福の極致である「そのなすところみな栄える。」(詩篇1:3)と言う言葉が現実となる。

毎日のあゆみを祈るあゆみとしようではないか。キリストの恵の祝福があふれる生活を求めて。


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