「神に会う備え」     ルカ24章44-53節

 「主を待ち望むものは新たなる力を得る。」(イザヤ40:31)

  人生は待つことの連続である。そもそも人間は生まれて物心つくと自分の欲求が出てくる。やがて教育を受けて「更に良くなろうと」願うようになる。言葉を代えれば「幸福」になろうとする願いである。教育は「良くなろうとする努力」といわれるように、本来、人はいつも「今」に満足していないで、もっと成長する、発展することを願う本性を持っている。そこに生活の充実と文化の発展がある。

 キリストは弟子たちとの最後の別れのときに「上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)と言われた。その力とは「父なる神が約束されている」クリスチャンに与えられる「キリストの証人として生きる力」である。キリストを信じることはキリストを証しする生活に変えられること、すなわちキリストを信じることは神の栄光とその素晴らしさを体現することである。

 先ず、キリストの約束される神の恵みの祝福が生活に表されることこそがキリストが生きておいでになることを証明することである。キリストの約束が生活に顕わされることが成長であり、祝福である。そこにいつも「期待する」生活がある。成長は期待から始まる。「都にとどまる」とは「待つこと」である。力とは「聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力を受ける。」(使徒行伝1:8)の言葉が示すように「聖霊」に他ならない。聖霊を受けいれる時、「願いを起こさせてくださる。」(ピリピ2:13)と約束され、「かつ、実現に至らせるのは神である。」(同じ)と言う。「期待を与え」そして、「期待を実現される」のも聖霊の働きなのである。

第一に、聖霊は人に働きかけて「キリストに期待する」生活とされる。キリストを目指し、神に喜ばれる祝福を結ぶことを目標にすることになる。(ローマ12:2)正に、キリストに生きる人としての証の生活である。「「キリストがわたし内に生きておられる。」(ガラテヤ2:20)証しである。

第二に、聖霊を受けるとき「力」を与えられるとは、活けるキリストは信じる人に真実の喜びを与えられる。キリストの救いの確かさを告白するクリスチャンになるという約束である。キリストに生きる喜びがこみ上げ、人々にキリストの恵みと救いを伝える熱情があふれるようになる。どんな犠牲を払っても人々にキリストを伝える使命が生活に顕れる。

第三に、神の国の実現を待ち望むものとなる。キリストのみこころを実践することによって神の国を生きる喜びを体験すると共に、神の国が再びキリストの再臨によって完成されることを「待つ」日々となる。真実にして確実な希望に生きることになる。

 クリスチャンは目指す人生の目標、自己の成長をキリストに置き、生活をキリスト化する生き方である。また、人生の終わりとしての死を迎える時、虚しさと悲しみに終わるのでなく、神の国の永遠の命に生きる喜びを、真実の魂の平安をもって、人生の完成を感謝することになる。「待つ」ことは聖霊の導きを信じることであり、聖霊に人生をゆだねることでもある。

クリスチャンは「生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」(ローマ14:8)



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