「平和の訪れクリスマス」   ルカ2章1-20節

 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。」(ルカ2:14節)

 この聖書の言葉は、野宿をしている羊飼たちに天使から告げられたクリスマスのメッセージである。「神の栄光があまねく照らされ、地には平和が訪れる」という予告の言葉である。クリスマスは「平和の訪れ」のときである。

 米国の故ケネデイ大統領は「戦争には努力は要らない。平和には忍耐が要る」と言う言葉を残している。平和はたしかに互いに理解し、譲り、信頼するところから生まれる。又、平和を維持するには、絶えず信頼を醸成し、友情を育み、理解の交流を深め、互いに過ちを赦す精神がなくては崩れてしまう。人と人、家と家、地域と地域、国と国が平和であってこそ人は幸福に暮らすことができる。戦争は悲惨と混乱、破壊と焦土、無駄と非建設的、生命軽視と殺戮、虚無と虚脱、不安と絶望しかない。

 本来、人は幸福に生きたいと願うものである。幸福は人の満足感でもある。願うことが実現することこそが幸福である。しかし、個々人の願いが違うことは幸福も違う。お互いが願うものを奪い合うことになれば争いは絶えない。

第一に、衣食住の満足は家庭でも、社会でも、国と国の間でも争いの第一原因である。第二に、所有欲や、支配意欲、征服欲、食欲や、欲情、快楽などは果てしない生活の摩擦や対立、争い、傷害沙汰、流血事件ともなる。自然な人間にはこのように、本来、罪深くしか生きることができないといえる。

「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。」(ロマ7:18)

 家庭も、国も全ての場で人が動かしているとすれば、動かし、支配し、責任のある人の心が問題である。「心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるだろう。」(マタイ5:8-9)心が清くされるとき、神と共にあることを知り、神の約束される平和が実現するというのである。

「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(コリントⅡ、5:17)キリストを信じることは、新しく生まれ変わることである。罪を悔い改めて神と和解し、キリストの心を心とし(ピリピ2;5)、もはや、「自分が生きるのでなく、キリストが、私のうちに生きておられる・・・。」(ガラテヤ5:20)イエス・キリストの心で生きる。家にキリストの平和が来ることになる。

 キリストは神の国を教え神の愛に生きることを示された。キリストは神の愛と赦し、和解と平和を示された。そして敵対する人々に十字架につけられた。そこでも自分を裁き殺す人々を赦し祝福された。人々は「この方こそ神である。」と告白した。

クリスマスは、キリストが和解の道、罪の赦し、救いと解決を与えるためにお生まれになった日である。クリスマスはすべての人の心に平和と幸せを贈る日である。羊飼いは、キリストの降誕を告げられ、ダビデの町に行って+キリストを訪ね出し、語られた言葉が真実であることを知って神を崇めた。

「神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにしてくださった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」(ヨハネⅠ、4:8-9)



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