「クリスマスを迎える喜び」

 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を生むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるで あろう。』これは『神われら共にいます』と言う意味である。」(マタイ1:25)

 クリスマスはキリストの降誕を祝う日である。赤ちゃんが生まれると家庭によろこびが訪れる。イエスの降誕は人類のよろこびである。よろこびはイエスがその生涯を通して示される神の国の訪れである。

 すでに神の恵みはすべての人に十分備えられている。創造のはじめ森羅万象の創造で最後に人を創造されたとある。人の存在の前に人が生きることのできる十分な環境を備えられていることは、そこに神の愛の完全な配慮と備えがあることを意味する。人は、生まれながらにして自分ひとりで生きている、努力して生きていると考える。

しかし、何一つとして与えられていないものはない。支えられ、育まれ、導かれて生きるようにされてきている。自然の中におかれている自分を発見するとき何一つ誇るものはない。そこに神様の創造の御心としての愛を認識できるのは信仰による。神を信じられないときは、自分の力で生きているように思い、振舞う。

その生きる欲情が自己中心となって欲情は人を狂わせ、あるときは破滅にさえ至る。そこに人間の根本的な罪性ある。救いようのない罪の深みである。

 クリスマスは「捕らわれている人に方面を告げ、欲情に縛られている人に放免を告げる。」(イザヤ61:1)時である。イエスの降誕は人間の悲劇としての罪からの解放と赦しが告げられる出来事である。イザヤはイエスの使命を預言している。「彼は(イエス)は、われわれの不義のために砕かれたのだ。

彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」(イザヤ53:5)「彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」(:12)イエスの生涯は十字架の受難で贖罪を果たす使命を証しされる。クリスマスの喜びは罪の赦しと人間の真実の解放にある。「われわれに平安を与える」(:5)ためである。

 そして、イエスは、“インマヌエル”ととなえられる、すなわち「神われらと共におられる」経験を可能にしてくださる。神は、共にいて招き、「すべて重荷を負うて苦労しているものは,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:30)と招き、助ける神である。

 クリスマスの喜びは、「神の愛が明らかにされた。」(ヨハネⅠ、4:9)よろこびである。イエスは、どんな犠牲を払っても人を贖い、十字架につけられて罪の恥と苦しみを背負ってくださる方である。“愛するとは犠牲を払うことである。”

「神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪の贖いの供え物として御子をおつかわしになった。ここの愛がある。」(ヨハネⅠ、4:10)クリスマスは、最高の贈り物として御子イエスをお贈りくださった喜びの日である。その犠牲によって人は罪赦され、神の子とされて永遠の命の希望に生きるものとされる。

だからこそ“神の愛”が生きる原理となり、その愛し合う心の世界が神の国の実現の希望となる。クリスマスは、最も尊いものを贈り、互いの愛を告白する和解のとき、平和のとき、感謝のときである。心から感謝と喜びを持ってクリスマスを迎えようではないか。




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