「感謝と喜びをささげて」     ロマ書8章26―28節

 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、
  万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ロマ書8:28)

 過ぎた日々は早く感じられる。一年、365日、年があけると大相撲が始まる。4月には野球のペナントが始まる。6月になると半分が終わる。8月になると日が短くなる。野球の優勝を気にしていると終わり、菊が咲き、紅葉に気をとられているとクリスマスを迎えて年は終わる。気がつくと人生も終わりに近づいている。

 人それぞれの出来事に出会い、いろいろなことを経験する。うれしいこと、悲しいこと、辛いこと、楽しいことなどが綾なす中で日々が過ぎていく。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。」(テサロニケⅠ5:16-18)と言う言葉は「ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださる。」と言う約束が「いつも喜べる。すべてのことについて感謝できるように」なるという結果として経験できる。

 第一に、人生の毎日は一人ひとりにとってかけがえのない日々であるということである。その日々は、神を信じる者にとっては意味がある。「ご計画に従って召される者」にとっては、おかれている様々な出来事に遭遇することによって「益となる」というのである。見るからに辛くて損しているようなことにも、決して「損」ではなく、「益」となるのである。その経験を通して神は、祈ることを学び、聖書に聴く事を学ぶ。病気になる。辛さを知る。苦しみを知る。見舞いを受けて、その喜びと人々の親切と愛を学ぶ。介抱する家族の愛と思いやりを経験する。

そこで、真実に病の人の気持ちを理解し、思いやる思いが養われる。辛い経験の中で人間としての尊い学びをする。そこに人間としての成長が生まれる。素晴らしい出来事、事業が成功する。思ってもいない収入がある。その喜びを、自己満足にだけ終わらせるのでなく、愛するものと共に分かち合い、貧しい人を思いやる機会とするかどうかが問われる。

 第二に、神のご計画と選びについての教えは神への信仰なくして理解は難しい。それはキリストに出会い、救われてからわかる教えであり、経験である。神に愛されている自分を知るのはキリストによって出会い、自分の罪深さを知って悔い改めることから始まる。それはキリストの救いを経験すること、即ち神の一方的な恵による経験であるからである。自分の存在そのものが恵みによるという自覚から与えられる経験である。生活、いや全生涯が神の恵みに生かされていることを自覚するのである。主なる神はいつも、絶えず共にいて支え導き、助けられる経験である。そこでは何一つとして無駄なものはなく神の導きとして、「益」として意義だてて下さっている事がわかる。そこに感謝が生まれ、喜びが与えられる。

 第三に、この素晴らしい経験は神を信じ神を愛している者に与えられる経験である。「神を愛する者たち」と言われている。ここでは「神に愛されている者たち」とは言われていない。

たしかに「はじめにわたしたちが神を愛したのではなく、神が愛された」(ヨハネⅠ、4:10)と書かれている。
愛されていても、愛しますと言ってこそ愛は現実となる。人が愛する決意をしてこそ愛されている自分を知るのである。
愛すること、信じることは決断なくして交流はない。しかし、愛の告白は神の恵として迫る。

人が生き、キリストの救いを受け、信じる信仰に生かされ、そして約束の永遠の命に導かれることは、すべて神の恵みによるのである。感謝。




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