「ビジョンと信仰の決断」  コリントⅡ、5章7節

「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」(コリントⅡ、5:7)

 キリストを信じる信仰は“信仰の完成者であるイエス・キリストを仰ぎ見つつ走る”(へブル12:2)ことである。
イエス・キリストが人生の目標であり、指導者である。キリストに目標を置くことは、キリストに希望をもつことにほかならない。

「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2:13)

 第一に、人はキリストに出会って人間の現実の真実に目覚めることができる。神から離れた人間のみじめさを知り、罪と滅びの虚無、希望のない人生を知る。そこから“信仰の完成”を目指す人生が始まる。
キリストの罪の赦しと神の恵みによる人生のあり方に目覚めて、“かしらなるキリストに達し…キリストを基として、愛のうちに成長する”(エペソ4:16)者として生かされるのである。キリストに似せられることを目指し、絶えず自己の内より湧き上がり、自分を支配する欲情をキリストの御心にかなうものとして聖別されるのである。その基本的な訓練は御言葉と祈り、キリストのみ体なる教会につながることによって可能となる。

 第二に、キリストのみこころを養われ、キリストを証しする証しできるものと成長する。キリストにある交わりの中で相互に学び養われ成長して愛の人として生きることになる。キリストの愛に生きる人は、キリストの愛と恵みを証しする人となる。キリストの恵みは聖霊として働き、愛の恵みの実を結ぶ。その聖霊の働きは宣教の霊として家庭で社会の中でキリストの福音の証となる。愛と平和の人として成熟したクリスチャンの働きが進められることになる。

 今年の教会の標語は「リバイバルの年、祈祷と宣教」である。マタイ福音書の14章には、逆風に悩まされる船に乗った弟子たちが途方に暮れているときキリストは荒れる波の上を歩いて彼らに近づかれた記事がある。

弟子たちは夜明けの薄明かりの中で荒れる波間に人影を見て恐怖に包まれる。しかしそれがイエスであることがわかると、ペテロは水の上を歩いて身元に行くことを願う。イエスは、「おいでなさい」と招かれ、ペテロは一歩波の上に踏み出すと歩けるではないか、なおも荒れる波に気を取られて波を見ると足はあっという間に沈み、突然の混乱と恐怖のために「主よ、お助けください」と叫んでいた。

主は「信仰の薄いものよ」と言って手を取り引き上げ、二人が船に乗ると風は止み、海は凪た。弟子たちはこの異象を見て「ほんとうに、あなたは神の子です」と告白するのであった。

この出来事こそいまのわたしたちの置かれている新しい年の出発へのメッセージである。暗がりで逆風の環境。家族の崩壊、道徳の退廃、霊的な失意、恐怖と不安と希望のない現実、伝道の停滞などの只中にある。

しかし、主は「恐れるな、汝と共にあり」といわれる。勇気をもって「信仰とビジョン」を掲げて主を見上げ一歩踏み出そう。そこに主の業が起こされる。信仰に歩む限り、主は業を見させて下さる。

「信仰に始まり、信仰に至らせる」(ロマ1:17)信仰の恵が勝利と希望となる。信仰の一歩が勝利の年となることを信じようではないか。

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