「キリストにある喜びは力」  (ネヘミヤ記 8章1-12節)

「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」(ネヘミヤ記8章10節)

 キリストを信じる信仰の大きな実の一つは「喜び」である。人生にとって大切なことは自分を知ることである。カルヴィンは「神を知ることは自分を知ることである」と言った。神を知ることは神を信じてわかる、即ち、認識できることである。

キリストに出会って、神のない生活が自己中心で、絶えず、人間の本性としての欲情に支配されているみじめな罪深さを知ることができる。神のない生活は、自己を神とすることになる。神を信じることは神の言葉に生きることであ
る。していいこととしてならないこととをわきまえることである。

「主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい」(エペソ5:10)

主が喜ばれることは、人が真実に幸福に生きることである。人が、真実に神を喜び、幸せになることが、神の喜びである。神は、人が真実に喜べるようになるためには犠牲をいとわれない。それが、キリストの生涯に表わさされた神の愛、十字架の犠牲である。神がどのような犠牲を払っても愛してくださっていることに気付き、信じるときに人の心に変化が起こる。

神を知らないでいるみじめな、罪深い自分のためにキリストが贖罪の犠牲になって死なれたことを知るときに、
罪の赦し、神との和解が、神の子とされた喜びとして心にわきあがってくる。「神は、わたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(コリントⅡ、5:21)そこで、人は、神に愛されている「わたし」の自覚に生きることになる。神の喜びに生かされる自分である。

聖書は「主にあっていつも喜びなさい」(ピリピ4:4)「いつも喜んでいなさい。」(テサロニケⅠ、5:16)と言う。それは、“主が、いつも喜ぶことができるように生かしてくださる”と言う約束があるからである。

ソロモンの統一国家ができて後、イスラエルは南北朝に分裂する。それから幾び重なる侵略で北朝が滅ぼされ、南朝の滅亡と共に神殿は破壊される。ペルシャのクロス王の時世にイスラエルの帰還が実現し、エズラの指導によって破壊された神殿を回復した。

そして、民衆が集められ神の律法が朗読解説された。人々は泣いた。神殿の破壊と国家の滅亡、捕囚による他国での苦難を思い、律法を忘れ、偶像に走る愚かさの苦難への反省と嘆き、神の言葉、律法への不従順を悔い、悲しんだ。

しかし、総督ネヘミヤと学者エズラは言った「主を喜ぶことはあなた方の力です」と断言した。それは「わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思はない」(エレミヤ31:34)と言うことである。過去のことは赦されている。反省し、悔やみ、悲しみ、泣くだけでなく、いまこそ神殿を回復し、神の言葉、律法を聴いたのである。嘆くのでなく、主の祝福と憐れみをほめたたえ喜べ、そこに力が、命が、希望があるのであるというのである。

キリストを信じる喜びに生きることこそ、命であり、人生の目標であり、希望である。“喜べないときにも喜べる”この不思議な喜びこそは、キリストの約束される信仰の喜びである。

「めぐみの信仰によって導きいれられる、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけでなく、患難をも喜んでいる。」(ロマ5:2-3)



今週のみ言葉  ヤコブ 1章2節
「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試練にあった場合、
 それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」


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