「豊かに実を結ぶ日々」    ヨハネ15章1-11節

 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、何でも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。」(ヨハネ15:7-8)

 春、種をまき、秋豊かに実りを刈り入れできることは農業を営む人々にとっては当然の期待である。キリストを信じる人々にとっても日々の信仰の生活の実践が豊かに実を稔らせることは祈りの課題である。ヨハネ福音書の15章の「ぶどうの木のたとえ」はキリストにつながることによって多くの信仰の実を結ぶ原理が記されている。

ぶどうの枝に実がなることはぶどうの枝が幹に「つながっ ている」ことである。至極、当然なことである。その幹はキリストであり、キリストのみ言葉である。「つながる」ことは「信じる」ことである。1節から11節までの中で「つながる」また「おる」「とどまる」と言う言葉が13回あるが、原文では「メノウ」と言う同じ字が10回使われている。それは「住まう」「生活する」と言う言意味である。キリストのうちに「生活する」「生きる」ことになる。

「キリストにつながり、キリストの言葉があなたがたのうちにとどまる」ことは、正にキリストの言葉によって生活する、生きることである。そこに初めてキリストの約束の実が結ばれることになる。そして、それがキリストの弟子の証明となる。キリストを信じる祝福の証である。

 そこには3種の実があることになる。その第一は、キリストを信じるものに結ばれる品性の実、聖霊の実である。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制である」(ガラテヤ5:22)と聖書は言っている。それは「キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、…神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされる」(エペソ3:17,19)と言うのである。

「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、キリストに達する」(エペソ4:15)のである。キリストの愛が人格を満たし、キリストの愛を生きる、その愛の実を結ぶことになる。第二は、生活の祝福の実である。「あなた方のたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、また健やかである」(ヨハネⅢ、2)祝福である。それは又、「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」(ロマ8:37)と約束されている。

祝福の実の喜びである。第三は、キリストの愛に生きることは、福音に生きる、福音を伝える喜びの実を結ぶことになる。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためである」(ヨハネ15:16)と言われている。

キリストの福音は神の国の福音である。人々の心に神の国が実現することである。ひとりでも多くの人々がキリストの救いを受け、キリストの御心に生きる、神の国を実現することこそ、キリストの御心に生きることになる。キリストの愛に生きる喜びが、人々と共にキリストの愛に生きる喜びとなる。
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を伝えよ」(マルコ16:15)の命令に生きる、それが宣教の実の喜びとなる。



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