「信仰の決断と祝福」      マルコ2章1-12節

 「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。
  そして、知恵をつくして互いに教えまた訓戒し心から神をほめたたえなさい。」(コロサイ3:16)

 生活を活気づけるのは「目標」を持つことである。「目標」の達成は「決断」にある。ゴールは決断で始まる。決断なくして何事もなすことはできない。決断は「信じる」ことによって行動する。生きた信仰は「決断」であると言える。

 マルコ福音書の2章には中風を患っている一人の人を「人々」が連れてきてイエス様に癒していただくように願い、癒 やされた記録がある。

この出来事が語るメッセージは、第一に、人々とは身近な家族で会ったであろうか、4人に担がせてやってくる。イエスが話しておられる家には多くの人々が集まり立錐の余地がなかった。戸板に乗せられた中風の人が入ることはできない状態であった。要するに不可能であった。そこでたじろぐのでなく信じて踏み出す「決断」がなくてはならないことであった。そして、祝福と勝利が約束される。

今年度の目標を掲げ、信仰を持って決議する教会宣教会議が今日、開かれる。「信仰の決断」を持ってはじめなければならない。

第二に、この教訓は、中風の人を連れてきた人々に共通していることは一致していることである。中風の人を戸板に乗せている4人の人々がキリストに行き着くまで力を合わせ携えていく諦めない「一致」である。周りにいる人々もおそらく彼らに注意を与えて一致した思いで励ましている。

正に、これは課題を持つ教会であり、常識的に考えられない目標に挑戦する教会の姿勢をあらわしている。目標を目指すときに対立や分裂は行動をくじき、勇気を削ぐことになる。神の祝福は「一致」による祈り、願いにある。

第三は、目標があり、その実現への確信は「一致」を生み、「行動の持続」にある。彼らはキリストに出会えば「癒やされる」と信じていた。又、いろいろな手当てをしてきたが、方法はなかった。キリストに願うことが最後の手立てである。そこで、屋根に上り、屋根をはがし、キリストの目前におろした。

「信仰」は「癒やされる」と言う目標を「諦めない」ことであることを教えている。「諦め」は絶望でもある。キリストは「失望しないで祈る」(ルカ18:1)ことを弟子たちにお教えられた。

又、山上の説教度も繰り返し「求めよ」「たずねよ」「門をたたき続けよ」(マタイ7:7-8)と教えておられる。
中風を連れてきた人々は、確かに屋根をはがすと言う常識では考えられない行為をした。信仰の熱心は普通の考えや常識を超える行為をすることがある。信仰は行動し、諦めることなく、持続し続けることが証となる。

第四に、中風の人に、先ず、イエスは「罪の赦し」を宣言された。イエスを話を聞いていた人々の中には律法学者がいて「神のほかに罪の赦しを宣言するものはないはずである」と問題にした。中風の人は癒やしを求めているのであり、罪の赦しではなかった。

しかし、イエスは罪の赦しの権威を示すために、中風の人を癒やされた。ここで「癒やし」は神の全能をあらわし、イエスが救い主、神であること、罪を赦す権威のあることを証しされている。その罪とは神との交わりを失ったことであり、神から離れている罪、人のみじめさ、すべてのわざわいと不幸と混乱の根源的な現実を示しておられる。

その罪からの赦しと解決が祝福の鍵となる。即ち、罪の赦しこそは人を癒やし、人間の幸せを回復することを言っている。キリストによる父なる神との和解、罪の赦しこそが幸せと祝福の根源である。

この神の無限の愛に生きる教会は、キリストの福音に生かされ、福音を人々に伝えるのである。


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