「美しい人生の道」   エペソ4章30-5章2節

 「神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
  また愛のうちを歩きなさい。
  キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしい香りのささげ物、
  又、いけにえとしてささげられたのである。」(エペソ5:2)

 「美しい日本」は現政権の政治スローガンである。政治は現在の問題を克服する課題を標語にする。「美しい」を標榜することは、現実は「汚い」ことになる。それは、環境破壊であるのか、道徳の荒廃なのか、弱肉強食の経済の仕組みなのか、自己喪失のような主体性のない外交なのか、よく解らないという印象が一般的である。

もともと日本は景観の美しい国である。富士山、信州の山々、瀬戸の静かな島影、それぞれの地方には個性があって美しい。現実は「汚い」「破壊と混乱」への怒りと不満が社会にあることである。「政治」は「汚い」の代名詞でさえある。又、民主主義の社会では「政治は社会の窓」ともいわれ、民意が現れることになる。福田赳夫は「政治は道徳」であるといいたことで有名である。

それは人の精神性、心の問題である。美しい政治こそは国家国民の生活基準を生み出すことになる。その美しい政治は人々の心の表れである。お互いに生きる決まりを、つまり人の心の集約が政治にあらわれると言える。そして人々は各自に何が正しいのかを自分が信じる道にしたがって歩むことになる。

 心の問題や教育の問題は、政治による国家の押し付けは本来の自由で人権を尊ぶ国にはふさわしくない。家庭や、人の教育は、基本には個人と家庭の責任であると言える。そこで時代と歴史を超えて人類に差し伸べられている真実な神の解決(救い)と教えを持って美しい家庭、社会、日本を目指す希望が約束されている。

 キリストによって現わされた神は、愛にして聖なる神である。神は真実にして善、不変にして正義である。全能にして全知、遍在の神である。人は「何が神に御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるのかを、わきまえ知るべきである。」(ロマ12:2)

神のみ旨によるよることが「美しさ」の基礎になる。この「美しい」基準が生活や社会の基本となるときに「美しい」家庭や社会の目標となる。だから「神に倣うもの」「神の愛に生きる」者として生活すること聖書は勧めている。(エペソ5:1-2)

 第一に、キリストは神の国は「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカ17:21)と言われている。その第一歩は、神との和解、神から離れている罪深い自己に目覚め、悔い改めて日々に新たに神の御心に生きることにはほかならない。御言葉による自己形成であり、神の愛に生きることである。

 第二に、神の愛に生きることは人と共に神の愛によって生きる、そこに神の国が現実として形となる。思いやる共生の実践、赦す忍耐、即ち、平和と平安の保証がそこに生まれる。活けるキリストがその原理によって体験されるのが教会である。教会で信仰が養われ、実践され、体験される。

 第三に、その神の愛の恵を、家庭と社会に生かす生き方が神の国の体験となり、希望となる。美しいキリスト者の道が約束されている。それはすべての人々の祝福である。




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