「キリストの道を生きる」   ルカ14章25―35節

「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなた方のからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ロマ12:1)

 キリスト教会では牧師や伝道師になることを献身と言う。献身とは読んで字のごとく「身」を「ささげる」ことにある。神に「ささげる」ものとして聖別するとも云う。その人が神に代わって仕えるということから、聖なる世界と俗なる世界を分けてしまうことになる。中世では執り成しの祈りや伝道などは聖職といわれる司祭、伝道師の働きなってしまっている。

16世紀にM.ルターが聖書にもとづいてすべてのクリスチャンは同じく神様から使命を与えられた伝道者・祭司であると提唱することから教会制度の理解が改革されることになり、クリスチャンの人生は生活すべてが神に召されたものであると教えた。だからどのような仕事も、伝道者と同じで職場で神に仕える伝道者として証しすることになる。

そこで、伝道者が神に「召された者」と言うように一般の仕事も神に「召された」仕事であると言うことから、ルターは「召される、召命」ベルーヘン(ドイツ語)は「職業」と同じ意味であると言った。そこでドイツ語では職業を「ベルーヘン」と言うようになったといわれている。

 ロマ書は前半でキリストの福音、信仰と救いについて詳しく説明している。12章からはイエス様を信じたクリスチャンの生活の具体的な教えについて最初に生活の基本を示している。あなた方の「からだ」を「神に喜ばれる聖なる供え物としてささげなさい」と勧めている。それは「献身」、即ち「霊的な礼拝」である。

礼拝も英語ではサービスと言い、「奉仕、仕える」を意味している。生活のすべての場、家庭でも、職場でもどこでもキリストに喜ばれる人として生きることを指している。クリスチャンとしての証しをする生活である。それは伝道であり、キリストの言葉に生きることである。

 ルカ福音書14章でキリストは「親族、自我や、よくも捨てて従え、そして自分の十字架を負って従ってきなさい」と勧められている。そこで初めてキリストの弟子であるということになる。これはこの世と全く分離することではなく、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、ちからをつくして、主なるあなたを愛せよ」(マルコ12:30)この気持ちで生きることを意味している。

十字架はキリストの愛を現し、罪の赦し、その十字架を背負うことこそは、赦しえない人を赦し、敵をも改心に導く愛、そこに和解と平安、平和の鍵が託されることになる。すべてのクリスチャン(伝道者・信徒も)がキリストの福音に生き、福音を証し、伝えなければならない。

 このことは決して欲情と自我に生きる人間のできることではない。しかし、キリストを信じるときに与えられ、さらに祈る人に与えられる「聖霊の力」は、いけるキリストを体験させ、具体的に生活の中で神の恵みが祝福となって現される。正に「献身」したものの喜びと充実を経験することになる。人々にキリストの喜びは語り、伝えられ、人々と共にキリストにある真実の平安と幸せを、勝利の人生を分かち合うことになる。



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