「キリストの愛とやさしさ」  コロサイ3章12-17節

「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。」(コロサイ3:14-15)

 クリスチャンは「神に召された者」(3:15)であり、「神に選ばれたもの」(コロサイ3:12)として一つにされた。「一体となった」と言う。これはキリストに召された者の交わりであり、キリストの教会を言っている。神に選ばれることは、「神に愛されている者」として聖なる者、即ち、「神様のもの」にせられているのである。

現実には一人ひとりは「聖い者」であるとなっているから「神のもの」になっているのでなく、「神に愛されている者」ものとして語りかけ、呼ばれ、招かれていることを受け入れたときに、神の恵みと哀れみによって「神に受け入れられる者」とされたのである。正に、神の招きとは、イエス・キリストの十字架の出来事を知ることによって神から離れている罪の根源を自覚し悔い改め、神の恵によって赦され、受け入れることである。

 キリストの愛によって神の子とされた人は、キリストの愛の原理に生きる人となり、その人々こそはキリストの教会と言う神の家族としてキリストの愛を実践することになる。「キリストの愛は、すべてを完全に結ぶ帯」としてクリスチャンを堅い絆で結び、一体とする。

 その絆は決して不変なものでなく、絶えず、心の弱さ、ゆれる欲情にさいなまされ、悪魔の誘惑に揺れ動かされるのである。だから、聖書は「キリストの言葉を宿らせなさい。…あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさいのことを主イエスの名によってしなさい。」(5:16、17)と勧めている。

キリストの言葉と祈りによって、キリストの霊としての聖霊は、キリストの命と力となって一人ひとりを生かし、守り、導かれる。そこにキリストの愛が証しされることになる。

 ヨハネ福音書の8章に姦淫の女の記録がある。罪ある女の人が衆議の中でさばかれている。当時の律法によれば姦淫の罪は「石打の死刑」であった。イエスに反対する律法学者やパリサイ人は、日ごろイエスが教えておられる「愛と赦し」を「律法軽視」、律法は神の戒めであり、それは「神への冒涜」として非難していた。

イエスが宮で教えておられる人々の中に連れてきて罪状を訴え、死刑にすべきではないかと、イエスがどのように出られるかをしつこく詰問した。それは、その罪ある女を助けることはどうでもよく、イエスを攻撃する材料に過ぎなかった。しかし、イエスは「罪のないものはこの女に石を投げよ」と言われ沈黙され続けた。

叫び、訴えている人々は反省し一人去り、二人去り、イエスだけになった。誰もいないのがわかるとイエスは「わたしもあなたを罰しない。今後は罪を犯さないように。」とさとし、帰るように云われたと言うのである。この人は罪赦されて、死の恐怖から解放された。

キリストの愛は現実の生活に平和と一致を生み出す。なぜならそこには「あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身につけなさい。互いに忍びあい、もし互いに責むべきことがあれば、赦しあいなさい。あなたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい」(3:12、13)と聖書は記している。

そこに、キリストにある平和と一致と、調和が実を結ぶことになる。

今こそ、教会に、家庭にこのキリストの愛が生かされ、人としてのやさしさがあふれるものとなりたい。そこにこそ、キリストにある平安と希望、生きる喜びが約束される。



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