「活ける神の言葉の力」  マタイ8章5-13節

 「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちにとっては、神の力である。」
                                                      (コリントⅠ、1;18)

 言葉は不思議なものである。人を動かす力がある。言葉が通じないならば心は通じなくなる。お互いの気持ちが理解できない時には誤解と混乱が生じる。推測は誤解を生み、争いの原因となる。世界には3000以上の言語があるといわれている。方言を入れれば数えられないぐらいの言葉があると考えられている。人のいるところに言葉があることは進化論的には説明がつかない。

 旧約聖書の創世記11章には有名なバベルの出来事が記録されている。初め、言語は一つであったという。バベルでは人々が、高い塔を建てて天にとどかせようとした。人々の心の高慢を裁き言葉を通じないようにされた。人々は言葉が通じないので作業ができなくなり塔を造るのを断念したというのである。そして、人々は散りじりになったと伝えている。これは、言語の多様性が神への高慢、冒涜と反抗を表し、人間が自分の力で神になろうとする傲慢の罪を教えている。言葉が通じない人間の存在は、神から離れた人間の罪深さの象徴でもある。

 同じ言葉であっても、人は自分を守ったり、損得、駆け引きで言っていることと、心に思っていることがずれることが多い。真実な意味で、人は、隠れた本当の自分を出すことは殆どない。そのような罪深い現実であってもお互いに言葉を信じてこそ、共に生きることができるといえる。言葉は「信じる」ことによって見える生活となってくる。言葉は、信じられて実在し、現実となることになる。

 マタイ福音書8章には百卒長の僕が中風になって苦しんでいるのを癒やしを求めてイエス様のところに来る記事がある。イエス様は直ちに助けるために百卒長のところに行こうとされる。しかし、彼はあえて「来て頂かなくても「言葉」をください」というのである。彼の思いは、自分の部下は兵士として上官の命令は絶対であるという。イエス様は救い主、神として「お言葉」をくだされば、その言葉通りに信じて実行すれば、僕は癒やされると百卒長は確信しているのである。イエスはこの百卒長の「信じる態度」に感動され、彼の神への信仰を賞賛し「あなたの信じたようになるように」と言われた。するとそのときに家では僕の中風が治ったというのである。

 神は真実である。愛にして義なる神。全知であって人の必要を理解してくださる方である。そして、生ける創造主として全能である。その神の言葉を真実に信じるとき、その神の言葉は、現実に力となり、癒やしとなり、祝福となって人を苦しみから解放すると約束している。

キリストを信じるとは、正に生ける神の言葉を信頼して生かされるといえる。「キリストの十字架の言葉は、人を救う神の言葉、力、命の言葉である」。キリストの十字架は、人の罪の贖いであり、罪赦しと解放の約束である。そこに神との和解があり、神に生きる恵が約束されている。「キリストの救い」はこの世の「変わり行く」平安ではなく、確固たる「平安」、「希望と喜び」を体験させる。

「言は神であった。この言に命があった。この命は人の光であった。」(ヨハネ1:1-5)




ページのトップへ
  
2007年の礼拝メッセージ一覧へ

他の年の礼拝メッセージへ

トップページへ

2007年3月4日の礼拝メッセージ