「神の国の経済」    マタイ福音書6章19-24節

 人の生活にとって経済は大変大切なものである。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4;4)この言葉は人間の精神と物質の両面性を言っている。そして、パンだけで生きるのでなく、人は、神の言葉で生かされることを云っている。それは、神の言葉が人間の生活と現実のすべてを支える力となり指標を与えることを意味している。

人にとって大切なことは生活の安定である。端的に云えば、食生活の安定である。パンは、食の代表を表現している。聖書は決して現実抜きで精神論を言っているのではない。人の生きる、いや、生かす現実の安定、そして確信、期待と希望をもたらす信仰の結実を約束する。

「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」(ヨハネⅢ、2)と言うように信仰における霊的生活、生活のすべて、経済や、人間関係の現実、そして、健康生活についての三つの面の祝福の約束の祈りを言っている。

その祝福の聖書の教えの鍵はどこにあるのだろうか。絶えず神を原則として生きること、神に喜ばれる生き方、即ち、神を信頼することによって神の約束の祝福を確かなものにすることになる。日々の生活はともすれば神の御心からずれ、神を悲しませることになる。詩篇の言葉は「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩51:19)といっている。

「悔い改める」ことは「主に寄り頼む生き方」となる(詩34:22)。そこで「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか,御もとに身を寄せる人は」(詩34:8)といっている。主の御心に生きることは神の言葉に生きることにほかならない。そこで、第二の祝福の鍵は「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、私の家に食物かあるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために、天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」(マラキ3:10)と約束されている。

新約の時代では十分の一献金は恵の努力目標であるが、その精神が生かされるところに生活の経済的支出入の明細が基本において理解される。支出は神の御心にそうものとなる。聖書信仰においては人生は本来、一人ひとりが神にゆだねられた人生であ、神の栄光を表すことが生活と人生のあり方である。

聖書は「なぜ、糧にもならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたの魂はその豊かさを楽しむであろう。」(イザヤ55:;2)と言う。冗費や放蕩、見栄や虚栄に費やす愚かさを戒めている。

本来、献金は信仰の恵による感謝の心で、喜んで捧げる心が必要である。その信仰の原則に立つときにいつも自己吟味をし、生活を反省し、絶えず、神の御心にかなう思いが祝福として実を結ぶことになる。いまや、聖書の民のイスラエル民族は世界の金融の実験を握るとまで言われている。

その秘密が聖書の原則に基ずく、神への感謝にあると言われる。神の国の働きは神の国の経済によって世界に伝えられている。聖書の人の命を大切にする教え、互いに愛し合うキリストの愛の精神、キリストの十字架による真実の平和のメッセージ、永遠の命への平安、キリストの相互扶助の愛の世界が神の国の経済原理で拡大されている。それが一人ひとりのクリスチャンに、キリストの教会に託され祝福となる。


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