「キリストの十字架の意味」    ルカによる福音書23章26-13節

 今年の4月8日はイースター(復活祭)である。イースターの一週間前からイエス・キリストが生涯の最後を迫害の苦難で歩まれたことから受難週という。そして一週間前の日曜日を棕櫚の日といってイエス様がロバに乗ってエルサレムに行かれるのを見て人々が棕櫚の葉を振って「主の名によって来られた方、王に、祝福があるように…」と叫んで迎えたことによる。

そうして、イエスは最後の教えを人々に教えられる。木曜日には、イエスの教えと律法学者の教えが対立し、ついに逮捕され、裁きの庭に立たれることになる。金曜日に最終的な審問が総督ピラトによってなされて無罪であるとするが、反対する律法学者を中心にイエスを批判する人々の暴動のようになり、治安の問題から政治的な配慮でイエスを死刑にするという悲しい結果が宣言されて妥協で終わる。そして、イエスは十字架に架けられる。

 イエスは、以前から「わたしは必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(ルカ9:22)と語られていた。イエスは、十字架に架けられた次の日曜日に現実に甦られるという事が起る。弟子たちは半信半疑であったが、復活のイエスに出会い、不思議な経験が何を意味するのかが理解できずにいた。

イエスは、もう一つの約束、「あなたがたの上に聖霊が降ると、力を受ける。…地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)と約束されていた。

聖霊の力は、キリストの出来事、即ち、受難の出来事、十字架の出来事、復活の出来事の真意を理解する力であった。その理解こそは、ユダヤの小さな町で起こった出来事のメッセージが全世界の人々の救いと永遠の命の希望を伝える限りない祝福となったのである。

第一に、イエスの受難は、イエスが教えられた「神の愛による赦し」である。イスラエルではモーセ五書、即ち、律法を守ることによって救われる。永遠の命、神の御国に受け入れられると信じていた。イエスは、律法は人間の表面の生活のきまりで、実は、人間は律法を守りながら内心では人を憎み、他の人のものをほしがり、心で人を戒めたりする。その内面が穢れていては完全に神の前に受け入れられるものではないと指摘された。

どんな人でも心の底から自分の罪を自覚し、悔い改めてこそ、聖にして愛なる神は受け入れられるというのである。イエスは、律法学者の間違いを糾弾されたために迫害され、告訴され、追い詰められて死に追いやられた。第二には、イエスが架けられた十字架である。

罪のない人、正しい神の子イエスは、人々の罪深い現実を救う結果として「死刑」を受け入れられた。人々の罪を贖うために、身代わりとなって死んでくださった。イエスは十字架に架けられ、罵られ、辱めを受けられながら「彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのかわからないのです」と祈られた。敵を愛せよと教えても、現実に、自分を殺そうとしている人々を愛することはできない。そこに神の愛が現されている。

十字架は神の愛のメッセージである。第三に、復活は、イエスが「わたしを信じるものは死んでも生きる」と約束された。事実、死で終わる人生に希望を与えることになる。人は必ず死を迎える。しかし、イエス・キリストを信じるとき有限な人生は,永遠のとき、命を生きる約束をされている。現実を永遠の命に生きることは、今を、神の国に生きるものと代えられるのである。

受難週は、わたしたちのために苦しまれたキリストを偲び、キリストを深く思うときである。感謝。



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