イースター礼拝「死を克服して生きる希望」 ガラテヤの信徒への手紙2章19-21節

「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神のみ子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19-20)

 「人間は死にいたる存在である」とは実存哲学者ハイデッガーの言葉として知られている。別に哲学者が言わなくても、人間は例外なく死ぬことは解っている。自然の悠久の流れの一つの変化に過ぎない。人は、何故、死を迎えると不安になるのか。死は、孤独、淋しさ、不安、悲しみが付き纏う。あがいても、悶えても、嘆いても、死は訪れる。

 イエス・キリストは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは、死んでも生きる。」(ヨハネ11:15)といわれている。「死んでも生きる」とはなんと希望のもてる言葉ではないか。この言葉には二つの意味がある。

 その一つは、「生きる」ことは「死からの逃避」である。人にはからだと心がある。からだは生きているが、心は死んでいる生き方である。人間の心には、善なるものと悪なるものとがある。心は良いことと悪いこととの間をゆり動いている。動物には善悪はない。本能のまま自然に、機械的に生きているといえる。そこには自由や責任はない。程度の差はあれ自己中心で欲情を中心に生きることになる。

弱肉強食の世界。強いものが弱いものを食いのものにする世界である。人は、人と共に平和に生きてこそ幸せである。そして人を結ぶ絆は「愛」である。「愛は、すべてを完成させる絆です。」(コロサイ3:18)人を愛するとは、真実な意味で人に自分を献げること、換言すれば、愛している者のために自分を捨ててその人を生かす、生きるようにすることである。不思議なことに人は、人のためにささげること、死ぬことで自分が人になる。即ち、本当の意味で人間になれるということである。

 聖書は「神は愛です」(ヨハネ4:16)と言う。イエス・キリストは、人類の救いの犠牲として十字架に架けられる道を歩まれた。神は、御子キリストを犠牲にする、即ち、自己存在のもっとも大切なものを与える、捨てることによって神であること、愛であること、愛が何であるかを示された。キリストを信じることは、キリストの愛に生きることである。それは、神のために死ぬことが、他の人のために死ぬことを意味する。死んで真実の人間となり、生きることである。

キリストの十字架につけられている、わたしが十字架に死ぬことである。そこに神様の約束される平和と幸せが生活に体験されることになる。「わたしはキリスト共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません」(ガラテヤ2:20)

 第二に、キリストを信じることは、キリストに現されている復活の命に生きることである。それは死で終わる有限な人生でなく、永遠の時、永遠の命を生きる希望に生きることである。ヤゴが水に生き、変化して全く違う姿のトンボになって飛ぶように、有限の肉体から、まったく新しい栄光のからだに甦るのである。姿が変わっても命は、変わることはない。

死を克服して永遠を、神の国を今の時に生かされるのである。移ろい行く今の生活に、変わらない神の国を生きる。神の御心を実現する生活こそが希望となる。クリスチャンはいつでもどこでも「神、共にいます」神の国を今に生きる希望の人である。



ページのトップへ

2007年の礼拝メッセージ一覧へ

他の年の礼拝メッセージへ

トップページへ

2007年4月8日のイースター礼拝メッセージ