「共におられる神」 ルカによる福音書24章13-35節

 聖書の証言する「神」は「愛なる神」である。(ヨハネⅠ、4:16)愛は、単なる存在ではなく、愛があることは「交わり」である。愛するものと愛されるものとがあって「愛」があり、愛は「交わり」としてあることになる。神が愛であることは、神は愛する対象があって「愛」である。

先ず、第一に、創世記の冒頭に「初めに、神は天地を創造された。」(創1:1)
そして、「神はおつくりになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創1:31)と言われている。創造は神の満足であり、神の栄光の証である。創造の中に調和と充足がある。創造は「神の愛」の対象であり、メッセージであるといえる。

第二に、愛は、責任によって真実が証される。生みっぱなしで子供を顧みない人間がいる。それは神にかたどって創造された(創1:27)人間が、神から離れて罪に翻弄される姿である。神にかたどって造られるとは、神の心を持つ存在であるということである。神の心は、「愛」であり、愛には愛することと憎むこと、捨てること、拒絶することとを選択する自由があって「愛」することになる。人間には愛する自由と愛さない自由がある。実は、愛は自由によって「愛」となり、何を愛するかは、何を求めるかにある。

自分の願いを満足させることが愛になると欲情が動機になる。愛されるために愛することは打算が働く、それは自分のために愛することになる。真実な愛は、愛する人のために愛すること、愛する人のために自分を捨てることにほかならない。愛する人を生かすために自分のことを差し出す、犠牲にすることである。真実の愛は、責任を取ることであり、その責任は、愛している人のために生きる、犠牲になること、自分を愛している人のために捨てきることである。

 神様は、世界を創造された。それを人にゆだねられた。本来、人は、神様の心を生き、神の愛に生きるものとせられた。しかし、人はすすんで神から離れ、神様の心を捨てて欲情の奴隷と化して争いと、憎しみ、破壊と殺戮の歴史を歩んだ。自然界では見られない子殺し、親殺し、幾万人を殺害することを平気でする人間となっている。

 神は、この悲しい人間の罪に対する解決と平安を与える責任をもたれている。それは、神が「愛」であるからにほかならない。イエス・キリストは弟子たちに「聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明され」(ルカ24:27)神は、人類の救いの計画を立ててご自分の愛を示された。そのためにイスラエル民族を選び、メシヤ即ち、救い主を送ることを語り続けられてきた。

正に、そのメシヤこそはイエス・キリストであった。キリストは神の愛を語り、神の愛を生き、実証された。人々に迫害されながら人を赦し、十字架に架けられて犠牲になられた。そして、有限の人生が、死のむなしさと不可解さ、絶望で終わるのでなく、永遠に生きると約束された。そして自分が死から甦ることを予告された。神の愛の実証としての出来事が起こった。

 現実に、キリストは死んで甦られることが起こった。弟子たちに幾度となく出会われる。二人の弟子が、おそらく故郷に帰るためにエマオという村の方に歩いていた。イエスの十字架の出来事を回想して歩いているとある人が近寄り、語りかけられる。

そして、聖書からその意味を説き聞かせられる。弟子たちが夕暮れになり、共に泊まっていただくようにお願いして、食事をし、その人がパンを裂いてお渡しになると姿が見えなくなった。そのとき弟子達たちは、その人がイエスであると気が付くのである。彼らはイエスが聖書を語られたとき、心が燃えるのを感じる。

神は生きていて事実、いつも共にいてくださる方であることを体感する。弟子たちはエルサレムに帰り、聖霊を受ける経験を通して十字架が神の愛の犠牲であり、復活が永遠の命の約束であることを確信する。

現実に、神が人と共にあって、真実の平和と平安、和解と救いを与えてくださる希望を確信して世界にその福音を伝えることになる。イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたと共にいる。」(又18:20)と約束されている。




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