「神の国への招き」   ルカによる福音書14章15-24節

 日常おいて人は自分で考え、自分で選んで日々の歩み、人生を歩んでいると思っている。クリスチャンになったのもいろんな宗教からキリスト教を選んだと思うものである。しかし、聖書でキリストは「あなたがたがわたしを選んだのでなはない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)と言われている。

実際には、はじめから選ばれているかどうかは人にはわからない。クリスチャンとして神を信じるようになり、人間の生そのものが神の恵みによって支えられている自分を悟り、自覚するとき、神に愛されている自分を発見する。そして、神の国の民として選ばれている自分を知ることになる。

ルカ福音書の14章には神の国の宴席に招かれる人々の譬えがある。招かれた人々、実は選ばれた人々であるが、招きを断るのである。もっともな理由をつけて、ある人は畑を買ったから身に行かなくてはならない。ある人は家畜を買ったから調べるためにいけないという。そして、又、結婚したばかりでいけないと理由を言う。

それぞれの理由は、もっともらしいが良く考えると矛盾している。畑も家畜も買ってしまっているのであり、買う前に品調べに行くならまだしも、買ってしまって見に行くなら宴席が終わってからでもいいわけである。ましてや、結婚していれば嫁が今にもいなくなるわけでもなく、所詮、言い訳である。この宴席は「神の国」の宴席であるということは神様の招待である。

 ここで招待されている人々は、明らかに神の民として選ばれているイスラエルの人々、特に、伝統的な律法厳守をとなえるファリサイ派の人たちである。イエスは、この人たちが神の国の民だといっているが、実際は、神の御心とは全く違う道を歩んでいることを示しておられる。

それは、クリスチャンへのメッセージでもあるといえる。招き入れられながら、キリストのみこころを受け入れようとしないで言い訳をして断り、キリストとは遠く、違った道へ行くことになる。

それとは対照的に、この譬えは、宴席を満たすために「通りや小道」に出て行って全く社会から見放されたような貧しい人々、弱い立場の障害者の人々を招くように云う。「通りや小道」の人々とは宴席には遠い人々であり、その人々にも招がなされている。確かにペテロの後の手紙3章の9節には「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのである」と書かれている。

問題は招かれている人の心である。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いた心を、神よ、あなたは侮られません」(詩51:19)と言われている。神の言葉を拒むために言い訳をし、回避することは、神の恵みを放棄することになる。

 神の宴席とは、神の真実の交わり、平和を現している。安らぎの場であり慰めと命の再生の場でもある。人が神の言葉、神の招き拒むことは自己の孤立と分離を意味する。人は共に生き、人生を共有できてこそ幸せといえる。神の国は神の愛に生きる世界である。それは、人を真実に結び、一つにし、平安と平和を約束する絆であり、救いである。御言葉に招きに従う人、神の言葉に従順であることこそは祝福の鍵となる。



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