「素晴らしい祈りの生活」  詩篇1編1-6節

 クリスチャンの信仰は生活を生かす命である。信仰とは形式や儀式ではなく人を生かす命であり、人を動かす力である。その信仰が生活で生かされているしるしは「祈りの生活」である。生きた信仰は祈りがあるかないかで明らかになる。キリストを信じるときにそのしるしとして祈りの生活が始まる。真実に心を開いてキリストを迎え入れ信じるときに祈るように導かれる。

祈りはキリストの導きにより生まれ、キリストとの霊の交わりでもあり、聖霊の働きである。聖霊は、心を開いて信頼する信頼に比例して答えて下さるといえる。

 信仰が導き出されるのはキリストの言葉による。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ10:17)信仰の種はキリストの言葉である。キリストの言葉が心に根ざし全生活にその思いと結果が現れることになる。

詩篇の一篇には「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。…時が巡り来たれば実を結び…その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩1:2-3)と約束されている。キリストの言葉を愛することは信頼することである。その言葉が繰り返し告白されることによって自分のからだの存在がキリストの思いに満たされる。キリストの言葉に生きる。時が来ると必ず、その思いは実となって結実されるという。キリストの言葉は祈りを生むことになる。その祈りによって実が結ばれる。

 第一に、祈りとはキリストを信じる信仰の告白である。告白は確信となって形となり、結果としての実となる。それは流れのほとりに植えられた木が命としての水をくみ上げるように。御言葉に根ざした信仰は、聖霊の命の水として生活を豊かなものにする。

 第二に、祈りは願いを起こさせる。「あなたがたの内に働いて、御心のまま望ませ…」(フィリピ2:13)られる。信仰は祈りを生み、祈りは希望に導く。信仰こそ希望を生む。希望は、又、目的でもある。今の現実に満足していない自分に気付かされることから目的が明らかになる。キリストを信頼し、見上げ、求めるとき未熟な自己に気付くことになる。霊的な未熟さ、性格的な弱さ、また、生活の実現したい願い、人との交流での問題などを解決したい目標が浮き彫りにされてくる。その願い、目的が祈りとなる。

 第三に、祈りは礼拝である。又、礼拝は祈りである。祈りは神の言葉を聴き、応答することである。そして、キリストを心から信じる喜びを、キリストの愛と恵を賛美することでもある。祈りのあるところに礼拝がある。礼拝は神を崇め、慕い、敬う交流のときである。祈る人は霊的に高められ、信仰の確信へと導くことになる。

 第四に、祈りは献身に導く。献身は、身を献げると書くが、それは自分を神のものとして聖別することである。キリストを愛している証明でもある。キリストを愛していることは、キリストのみ言葉に生きることであり、キリストの愛に生きることである。キリストの戒めの基本は「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)である。

愛する人々の救いのために祈る人になる。キリストの福音を伝えるように導かれる。キリストの福音に生きることは人生を豊かにする。 キリストを信じる信仰は祈りに導き、「そのすることはすべて、繁栄をもたらす」(詩1:3)と約束している。素晴らしい祈りの生活を築こうではないか。



ページのトップへ

2007年の礼拝メッセージ一覧へ

他の年の礼拝メッセージへ

トップページへ

2007年4月29日の礼拝メッセージ