「祈る楽しい日々」   ピリピの信徒への手紙4章4-13節

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(ピリピ4:4)

 クリスチャンにとって聖書の言葉は生活の基本的な指針である。主に“おいて”は、έν(エン)という字が用いられている。英語ではinである。主に“あって”とか、主に“いる”こと、また、主を“信頼していること”、言い換えれば“キリストを信頼して生活している”ことにほかならない。そのことによって「常に喜びなさい」と命じている。

長い人生には、うれしい日もあり、満足の日もあり、辛い、悲しい日もある。聖書の言う「常に」とはそのいずれのときをも指すに違いない。嬉しい時、幸せなときに喜ぶことは誰にでもできる。しかし、悲しく、辛いときにも喜びなさいというのである。これは確かに無理であり、できないことであることは明白である。しかし、「常に」「いつでも」「どんなとき」にも「喜べ」というのである。

不思議なことに聖書は多くのところで人間の常識的な経験では到底考えられない言葉がある。実は、テサロニケの信徒への手紙5章の16節と17節には「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という言葉がある。ここでは「喜ぶ」ことと「感謝する」ことの間に「祈ること」が記されている。絶えず祈りとは、いつも祈ることである。喜べないとき、感謝できないときにも祈ることはできる。この「祈ること」が、感謝できない、喜べないときに感謝でき、喜べるようにしてくださる秘密が隠されているのである。

キリストを信じることは、キリストと共に生きることであり、「祈り」はキリスト共に生きる交わりを意味する経験である。「それは人間にはできることではないが、神には何でもできる」(マタイ19:26)。人には限界がある。しかし、神には無限の処方の道があり、解決の方法があると約束している。ヨハネによる福音書には「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネ15:7)とキリストは約束しておられる。キリストの言葉を信じて「祈る」時に、いつも、どこでも、どんなときにも悲しみを、辛さを喜べるようにしてくださり、平和の神、平安の神が共にいてそれを実現してくださると約束しているのである。

2人の兄弟がいた。裕福な何不自由の無い幼少の時を過ごした。時代の暗雲が漂い、戦争が始まり、空襲におびえて田舎に疎開する。身寄りもなく、田畑も無く家族は飢える。さらに不幸なことには災害が住居を破壊して持ち物の殆どをなくす。2人の兄弟は逆境の仲にも働きながら勉学に励み、戦後の苦しい時代を生きる。兄は、共産党に希望をもって挺身するようになり、弟は、政治家を目指すが、キリストに出会い真実の人の幸福は心の救いにあることに目覚め伝道師になる。2人は老いて人生を終わろうとするとき、兄は「人間の人生は苦しみの連続、神なんかいない。何の喜びも無く、意味もない。死んだらすべてがそれでおしまいだ。」と言う。しかし、弟は「キリストは苦しみや、悲しみも益として喜びに変えてくださる。戦争は痛ましいが、その苦しみの中でキリストは生きる意味を与え、希望を与えてくださった。人間は死で終わるのでなく神の国の希望に生きる。いつも喜べる人生をキリストは与えられる。」といって兄を慰めたという。
「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。…いかなる場合でも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(ピリピ4:11-13)



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