「人を生かす神の言葉」   使徒言行録2章1-10節

 人の生活は人間関係が土台となって営まれる。関係は共に助け譲り、自分のことに責任を持って生きるときに生かされる。自立と共生があって健康な関係になる。邪魔な存在、一方的に負担をかける関係は片方に負担となって長く続かない。

使徒言行録の3章に出ている男の人は、生まれながらに「足の不自由な」身体障害者であった。この人は、おそらく身近な人々に担がれて毎日、神殿の入り口に門の前に置かれていた。物乞いをするためである。2千年の昔、身体障害者への差別と偏見では、物乞いをする以外に生活の糧を支える手段はなかったといえる。参詣に来る人々にあわれみっぽい目を向けて物乞いをする日々であった。わずかな同情の施しにすがる日々であった。そこには善意だけでなく、障害のゆえの世間の差別や侮蔑、貧しさへのあわれみに対して、裏腹に見下げる心情に傷つけられることは毎日のことであったといえる。孤独と絶望感、人生への恨み、いつしか生んでくれた親への愚痴にまでなっていたと想像出来る。

 そこにペテロとヨハネが祈りにやってきたので、彼は施しを乞うた。ペテロとヨハネはじっと彼を見て「わたしたちを見なさい」といったので彼はものほしそうに見上げると、「わたしにはお金は無い。しかし、わたしの持っているものをあげよう。“ナザレのイエスの名によって立ち上がりなさい”」といった。そのとき右手を取って彼を立ち上がらせると、なえた足に力が入り、立ち上がり、歩き始め、喜びのあまり踊りまわって神殿の境内に入って行ったというのである。彼は完全に癒やされたのであった。イエスは「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるであろう。」(ヨハネ15:16)と約束されている。

イエスの約束は全能なる神の証しである。失望と孤独の中から解放するためのメッセージである。その奇跡のメッセージは、「神は愛である」ということにほかならない。第一に、神の愛は人に責任を持つということである。第二に、人は一人ひとりかけがえのない価値を持っている。第三に、人はどんな人でも神に必要とされている。しばしばわれわれは自分の人生の試練を抜きがたい枷の様に思い、自虐的にさえなって諦めることがある。

しかし、イエス様に出会うとき「愛されている自分」を発見し、呪縛する人生のかせから解放される。この足の不自由な者は、イエス様に出会うことによって実際的な経済生活の自立ができるようになる。人に同情されて生きる事によって抱く卑屈な心や屈辱感から解放される。参加できなかった社会生活に参加できるようになる。身体に障害をもつ者が入ることを禁止されていた神殿の境内に入ることが出来るようになる。自分自身が農耕に従事できる人になり、生産に参加できる喜びを与えられる。

キリストは人の心と生活と魂の充実が回復されることを証明している。また、一時のお金だけでは根本的な解決にならないことをいっている。ここには「イエスを信じる信仰が人を根本的に変え回復させる」というメッセージがある。神との関係が、人と人との関係を回復させることになる。

この出来事を通してエルサレムでは5千人の人々がキリストを信じるようになり、やがて全世界にキリストの福音が伝えられるきっかけになった。(使4:4)

聖書には「神ご自身、“わたしは、決してあなたから離れず、決して置き去りにしない…”」
「イエス・キリストは、きのうも、今日も、また永遠に変わることのない方です。」(へブル13:5、8)と言われている。


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