「希望に満ち溢れた約束の力」 イザヤ書40章27―31節

 人が生きるには様々な力がいる。生きる力と生かされる力がある。
日常では、人は自分の力で生きていると思っている。確かに自分が自立して生きる力がなくてはならない。
しかし、よく考えると人は生かされている力に支えられている。自然の力の中で生かされている。
人の命さえも、与えられている自然治癒力こそは命の源である。健康を維持しているのが自然治癒力である。
その治癒力がなくなるときが身体の死となる。

 このように見ると人は、本質的に生かされている存在である。自然や命の源があることになる。
そうしたら人は自分の存在は小さなものであり、偉大な自然と命の創造者であり、根源者、すなわち神様がおられる事に気付くことになる。生かされている自分との出会いは、生かされている感謝と喜びとなる。

 また、人は、他の人の助けによって育まれ、守られて生きる。そして、成長して他の人を助け、支え、苦楽を共にすることによって幸せを生きることになる。しかし、現実は争いや憎しみが絶えない。自分の欲望を満たし、自己中心になりがちな人間の罪深さはなくなることは無い。その罪深さを解決し、希望を与えてくださる命の道を示してくださったのがイエス・キリストの出来事である。その出来事は、キリストが十字架に架けられて死なれたことと、予告されていた通りに死んで復活された出来事である。この出来事の意味が解らないで弟子たちは迷い、失望し、苦しみ、不安に駆られるばかりであった。

 キリストは、不思議なことに復活されてから幾度となく弟子たちに出会い、聖霊を受けるまで都(エルサレム)にとどまって待ち望み、祈るように促された。(ルカ24:49)そしていわれた「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土まで、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)。“地の果てまで証人となる”とは、イエス・キリストの出来事が何を意味しているのかが解る人になることである。十字架の出来事を体験し、語り、説明することができる人になるというのである。

事実、キリストの復活の出来事の後、五十日目、即ち、ペンテコステ(ギリシャ語で50日)の日に120人の弟子たちが祈っていると聖霊が降るという出来事が起こる。弟子たちは、聖霊を受けることによって「真実にキリストを理解する」力が与えられたのであった。

 第一に、イエスが十字架に架けられたのは、すべての人の罪の贖いのためであった。罪を示され悔い改め、キリストがその罪の代償となってくださったことを理解し信じ、受け入れた。

 第二に、人は、罪赦され神の御心に生きる人として、死で終わる人生でなく、永遠に命に生かされる確信を与えられた。

 第三に、神を信じるものは、神の愛に生きるものとされる。

キリストの新しい戒めは「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)である。キリストの愛に生き、キリストの愛を、神の愛を伝えることである。どのような境遇にも対応し解決する力である。聖霊は、命であり、力である。人を再生させ、平安と希望に生かす、キリストの命であり力である。

「キリストの希望はわたしたちを欺くことはありません。」(ロマ5:5)

「主に望みをおく人は新たなる力を得る。」(イザヤ40:31)




ページのトップへ

2007年の礼拝メッセージ一覧へ

他の年の礼拝メッセージへ

トップページへ

2007年5月27日の礼拝メッセージ