「キリストの命と力」  使徒言行録9章26-31節

 今日の新聞やテレビの報道ではイラク戦争の批判がしばしば米国のブッシュ政権選択の思想的な背景がキリスト教原理主義にあるという。また、ネオコンとも言う。ネオは「新しい」であってコンサバティーブは「保守」という意味である。こんな言葉が使われてもキリスト教の誤解を受けるだけであるといえる。

キリスト教やイスラム教は一神教だから戦争をするので、日本の神道は「自然を崇拝する」から穏やかなんだと有名な評論家が言っていた。それは日本の歴史を知らないことになる。物部と蘇我との闘いは仏教と神道の政権争いである。明治維新は廃仏棄釈といって仏教を否定し、神道を中心にして昭和にはやがて神道精神をもって国民を無視する戦争の悲劇に突入した。それは、徳川幕府の仏教中心への反発であり、王政復古の道具として神道が使われたといえる。

 世界のどこでも人類の歴史は「戦争の歴史」である。戦争する宗教もあるが真実な宗教は、真実の神であり、真実な平和でもある。人間は、果てしなく罪深く、争いが絶えない。権力、支配力が宗教と一つとなるとき独善的になる。キリスト教も権力の道具となるときに真実の信仰のあり方を失うことになる。

 使徒パウロは「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン」(ロマ15:33)と祈っている。彼は、また、「すべての人と平和に暮らしなさい。…復讐せず、神の怒りに任せなさい。…悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ロマ12:18、21)とも言う。

 このパウロは、かってはサウロと呼ばれ正統的なユダヤ教の教育を受け、戒律に厳しいファリサイ派にあって、クリスチャンを目の敵にして迫害する人であった。ユダヤ教の本部から逮捕状をもらってシリヤのダマスコに行く途中、復活のキリストに出会って、キリストの声を聞く不思議な経験をする。光に打たれて倒れ、目が見えなくなった。そして、「あなたはどなたですか」と聞くと「わたしはあなたが迫害するイエスである。町に入りあなたのすることを知らせる。」(使徒9:5)。

そこで、ダマスコの町で逗留している家にアナニヤというイエスの弟子が来て祈ると見えるようになり、「あなたは異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしに名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」とい言われた。パウロは洗礼を受け、聖霊を受けたというのである。やがて、パウロは、当時の世界であるローマ帝国をくまなく旅してキリスト教初期の伝道の多くの基礎を築くことになる。

 キリスト教の歴史は迫害の歴史で始まる。パウロもネロ皇帝の迫害のとき殉教したといわれている。キリストの言葉「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい。」(ルカ23:34、)を実践した。無抵抗の平和主義は、クリスチャンを試練に陥れた。しかし、地上の苦しみと戦いながら天国の希望に生き、真実の平和を証明した。どのような迫害も脅迫も信仰を改宗させることは難しく、イエスの弟子は増え続け教会が立てられないときは地下墓地で礼拝した。

悲しみの中に希望を、苦しみのなかにキリストの慰めを、試練の中にも信仰の忍耐を、どんなときにもキリストの弟子として喜びに満ちてキリストにある人生を受け入れた。そして今日のわたしたちがある。
キリスト教原理主義、保守とは「聖書を言葉通りに生きる」ことに尽きる。もしそうであれば、戦争は起こりえないのである。

これを文章にすると「国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」ということになる。これは日本の憲法9条の文である。世界で最も富める国と言われる日本、不思議なことに聖書に基づいた平和主義である。

そして皮肉にも聖書の原理を建国の精神にするアメリカに押しつけられたと言う。国民の殆どが9条を誇りにし、守ろうとしている。すべての宗教や、思想を越えてキリストの福音こそは平和と命の原則である。家庭にも、国にも、世界にも、キリストの愛と赦しの救いが平和と命を守る鍵である。


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