「欺くことのない希望」   ローマの信徒への手紙5章1~5節


紀元55~57年頃に使徒パウロはコリントの教会に滞在している間にローマの信徒への手紙を書いた。当時のローマの教会は異邦人の信徒と、ユダヤ人キリスト教徒とが一緒に礼拝していたと考えられている。これらの信徒たちは律法に対する考え方をはじめ、信仰への多様な理解を持っていた。そこでパウロはまだ訪れていないローマの信徒たちに宛て、あらかじめ自身の福音理解を示し、信仰の新しい生活について書き送ることにした。

現在の日本で社会生活を営む私たちは日々の生活の中で様々な苦労や困難に直面することが多い。最近世間を騒がせている年金問題や経済格差の拡大、問題を挙げるときりがない。しかし、信仰によって義とされた私たちクリスチャンは神との和解により、神の栄光にあずかる特権が与えられている。パウロは多くの苦難や迫害に会い続けた人生であった。神はそのパウロの経験を用いてこの手紙を記された。私たちはこの世の戦いで勝利していくための信仰者としての姿勢を本日の聖句から学んでみたいと思う。

①苦難を試練と捉える
私たちは目の前で起こっている現実に目が奪われ、心が動かされやすいものである。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル 11:1) 私たちが直面している状況が喜ばしいものであっても、悲しいものであっても、その背後では必ず神の御手が動かされているという事実を知る必要がある。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16) 神はご自身の溢れるばかりの愛と憐れみによって私たちを暗闇の淵から救い出してくださった。目の前の現実は全て神が計画された結果であり、私たちの徳を高めるための試練なのである。

②喜んで忍耐する
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです・・・試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリント10:13) 苦難の渦中にある時、この御言葉は私たちに希望を与える。神は私たちが苦難を「仕方なく」受け入れるのではなく、「喜んで」忍耐することを望んでおられる。なぜなら「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになる」(ヘブル 2:18) からである。人間の目には不可能であることも神にはできないことはない。そればかりでなく喜んで忍耐することは、練られた品性(練達)が与えられるとも書かれている。「練達」のもともとの意味は「テストに合格している」であり、私たちがより魅力的な人格に成長する、と言い換えることもできる。

③貪欲に希望を求める
イエス・キリストははっきりと「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7) と仰った。パウロはピリピにおいてシラスと共に投獄されたが、彼はその状況を嘆くことも悲しむこともせず、希望を求めて賛美を捧げた。その結果、獄中から脱出可能な状態になり、看守とその家族が信仰を受け入れるという奇跡が起こった。虚しい信仰に基づく希望は長続きせず、失望に終わる。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(ヨハネ4:9) 聖霊によって神の愛が注がれることにより、私たちには空想でも妄想でもない真実の希望が約束されている。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。」(1テサロニケ5:16-19) どんな苦難の中にあっても私たちの心が聖霊に満たされている時、欺くことのない確かな希望に満ちた人生を歩むことができる。



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