「試練と喜びと祈り」  詩篇126編1-6節

「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(詩126:5,6)

 詩篇の126篇はイスラエルの南北朝時代、BC722年メソポタミアの侵略により南朝が崩壊、北朝もBC586年に壊滅、エルサレムの神殿崩壊に見舞われ、バビロンに捕囚された悲哀の歴史を背景に歌われた詩である。やがてペルシャが興りクロス王によってAD538年イスラエルは解放される。人々はこの喜びを詩篇126編の1と2節に歌っている。そして、イスラエルの人々は神の民の心に拠り所としての神殿の建設に取り掛かる。しかし、帰還した人々や残留した人々の様々なしこりや財源の問題が分裂と対立となり頓挫する。

 神は預言者ハガイやゼカリヤを起こし、すぐれた指導者エズラやネヘミヤのもとで再建される。十数年の苦渋に満ちた試練を回想して歌われたのが3,4節であると言われる。そして神殿を回復した喜びと感謝を5,6節に歌った。それは、ソロモンの栄華を極めた壮麗さとは比べることもできなかったかもしれない。しかし、70年に及ぶ捕囚の苦しみ、回復の祈り、解放され、帰還しながら、されに試練に直面し、苦汁の中で信仰による一致を取り戻して完成した神殿。それから繰り返される神の民の様々な礼拝に詣でる巡礼の歌となった。神は信じるものに約束されることは、必ずそれを果たされる。そして、祝福されることを感謝し、賛美した。

 試練は祝福の兆しである。悲しみは喜びの兆し、敗北は再建の始まりである。イスラエルのたどってきた道は、完成された、完全で、特別な民族だから選民としての使命を託されたのでなく、人間の弱さ、失敗と挫折、背信と欲情の狭間で迷い苦悩する罪深い人々であるからこそ愛される神の恩寵を証明する人々として選ばれている。神学者バルトは「イスラエルを見れば神がわかる」と言っている。第一に、イスラエルはどんな試練のときにも「祈る」ことを忘れなかった。第二に、「神は、生ける神である」ことを徹底して信じていた。如何なる時にも信じるものに近くおられ、助けられる神である。第三に、いつも主を誉めたたえた。それはハレルヤ(主を賛美します)の民であった。そして、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力です。」(ネヘミヤ8:10)と告白する。

 主を喜ぶことは生きる力、生かされる力、希望の力であった。苦しみにあって勝利して喜びが生まれる。それが自信となり、確信となり力となる。

 信仰生活において第一の喜びは、生きる使命が与えられていることである。ルターは職業を神の使命と理解した。換言すれば、生活そのものが神の使命である。神を信じる喜びを証明することになる。第二の喜びは、生活の中心は家庭である。家庭の安らぎこそは人に落ち着きと力となる。信仰によって家族が一つになり、賛美と感謝にあふれるときに家庭に笑顔と明るさ、希望が満ちることになる。第三の喜びは、人々の救いの喜びである。真実の幸せはキリストの福音の中にある。死への平安、生きる確信、永遠の命への喜びと期待がキリストの福音、救いの中にある。人々に福音を伝え、人々がキリストに生きることこそ、代え難い幸せであり、喜びである。そのためにクリスチャンは召されている。



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